ホーム > 清水正のチェーホフ論 > チェーホフ『退屈な話』を読む(12)... 【希望のない人があろうか】
チェーホフ『退屈な話』を読む(12)... 【希望のない人があろうか】
ニコライ・ステパーノヴィチは次のように書いている。
希望のない人があろうか? 自分で診断を下し自分で治療をしている今でも、わが輩はふと、自分が無知ゆえに思い違いをしているのではないか、体内から検出された蛋白や糖分にしても、心臓にしても、朝二回みられた浮腫にしても、あれはみんな自分の誤診ではないかとひとすじの希望を抱くのである。ヒステリイ患者特有の熱心さで治療学の教科書を読みあさり、まいにち医薬を取り替えながら、たえず何か慰めになる徴候にぶつかるだろうと、そんな気がするのである。
空に雲が広がっている時も、月や星が輝いている時も、わが輩は毎度かえり道で夜空をふり仰ぎ、遠からず自分を死がさらうだろうと考える。そんな時のわが輩の思考は、大空のように深く、明るく、驚嘆すべきものに思われよう。……だが、違う! わが輩は自分じしんのことを思い、妻やリーザや、グネッケルや、学生たちや、総じて人間たちのことを考える。よからぬことをいじいじと思いめぐらし、われとわが心をあざむくのである。その時のわが輩の人生観は、かの有名なアラクチェーエフ〔一七六九-一八三四。十九世紀はじめの横暴な寵臣で悪名高い反動家〕がある私信にもらした言葉で言い表わせよう。・・『一切の善はこの世では悪なしにはありえず、しかもつねに悪は善よりも多い。』つまり一切は醜悪であり、生きる目的もなく、六十二年のこれまでの生涯も徒労にすぎぬというわけである。
ニコライ・ステパーノヴィチは「希望のない人があろうか?」と自らに問い返す。問題は彼の言う〈希望〉である。彼は余命半年という医学者としての診断が誤診である可能性を持ち出してくる。すると彼の〈希望〉は〈誤診〉の可能性ということになってしまう。彼は、人間が逃れぬことのできない〈死〉を先延ばしすることを〈希望〉と言っているのだろうか。彼は先に指摘したように〈死後〉の世界について思いをいたすことはない。彼は科学を信じている。この信じ方は『六号室』のラーギン医師と同じである。彼らは理性及び科学の信奉者であり、理性や科学で解き得ぬ神秘の前に敬虔な気持になることはない。彼らは神の前に伏すことはできない。それは彼らが何よりも信ずる理性や科学に対する裏切りとなり、また今現在の彼らの生活を欺瞞のものとしてしまうからである。
ニコライ・ステパーノヴィチは「遠からず自分を死がさらうだろう」ということを自覚しても、なお現世の喜怒哀楽のドラマに執着している。彼は妻や娘、そして娘の恋人グネッケルが、自分の死後もまた元気に暮らし続けるであろうことをいまいましく思っているに違いない。科学を信じるということは、現世における自らの力に全幅の信頼を置いているということを証している。が、これは明らかに矛盾である。彼は科学によってこの世に誕生したのではないし、しかもその科学によって自分の命を永遠にコントロールすることもできない。科学(医学)は彼の余命半年を診断することはできるが、死そのものに対しては無力である。彼は、こういった点に対するさらに一歩突っ込んだ思索をすることはない。肝心要の問題に関して、彼はすぐに横滑りして他の問題へと巧みに乗り換えてしまう。
ラーギン医師はグローモフの狂気に興味を持って彼に近づき、彼と近づくことで彼が信奉していた理性を突き破る〈感情の爆発〉に襲われた。しかし、ラーギン医師もまたとつぜんの〈死〉によって、さらなる問題の追究を回避する。これは勿論ラーギン医師の問題ではない。そのようにラーギン医師の運命を閉じた作者チェーホフの問題である。
ニコライ・ステパーノヴィチは〈死後〉の問題に言及せず、現世(この地上世界)の事実に留意する。彼はアラクチェーエフの「一切の善はこの世では悪なしにはありえず」を想起する。それならさらにドストエフスキーの人物たちの叫びをも想起すべきだったろう。ドストエフスキーの人神論者たち、特にイヴァン・カラマーゾフの神に対する抗議(地上の世界を不条理なものとして創造した神に対する抗議)をも視野に入れてこそ、チェーホフはドストエフスキー以後の小説家となったのではないか。ニコライ・ステパーノヴィチ(およびチェーホフ)は〈神〉を持ち出されると、どういうわけか〈うんざり〉するのである。彼はまさか科学の全能を信じてはいなかっただろうが、それ以上に神を全能と認めることはできなかった。否、彼は神の問題を真っ正面に据えることに何かしら忌避の感情を抱いていて、そういった領域にさらなる一歩を踏み込んでいこうとはしなかった。
2004年06月12日
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.shimi-masa.com/mt/mt-tb.cgi/107