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2004年5月 アーカイブ

2004年5月 1日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(1)

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む

 ケンジ童話『みじかい木ぺん』に関してはすでに一度書き終えている。ところがこの『みじかい木ぺん』論が見当たらない。ここ二三日、家に保管してあるフロッピーと大学に保管してあるフロッピーのすべてを確認しなおしたがどこにもない。最初の記憶ではD文学通信に載せてあったように思い、合本(1032号まで)以降のものを確認したがそこにもない。そこでさらに記憶を辿ると、確かポケット3のメモリーカードが一枚壊れてしまったことがあった。もしかしたらこのメモリーカードに保存してあった可能性もある。とすれば、もはや『みじかい木ぺん』論を発見することはできない。印字してあればいいのだが、どうもその記憶もない。前に一度、メモリーカードが壊れて『千と千尋の神隠し』論が消えてしまい、初めから書き直したことがある。そのとき、書いた原稿は必ず印字しておかなければいけないと思ったのだが、同じ失敗を繰り返してしまったことになる。なんとも情けないことだが、仕方がない。また書き直すしかない。

 『みじかい木ぺん』に関しては、当時の授業で講義したことがあり、今回はその授業のことも視野に入れて論じることにする。

 

タイトル『みじかい木ぺん』の〈木ぺん〉をどのように読むか、という問いに対して〈もっぺん〉〈もくぺん〉〈きっぺん〉などが返ってきた。わたしは一人でこの作品を読んだ時は、素直に何も考えずに〈もっぺん〉と読み、それ以外の読み方など考えてもいなかったのであるが、授業においてはなるべく多くの学生に問いかけることにしているので、その時も〈木ぺん〉の読み方を意図的に問うことにしたのである。返ってきた答えで、改めて宮沢賢治が〈語〉に込めた多義性に気づかされることになる。

 さて、〈みじかい木ぺん〉とはいったい何を意味しているのか。まずはテキストを逐一追っていくことで検証していくことにしよう。

  キッコの村の学校にはたまりがありませんでしたから雨がふるとみんなは教室であそびました。ですから教室はあの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室でした。みんなは胆取りと巡査にわかれてあばれてゐます。
 「遁げだ、遁げだ、押へろ押へろ。」
 「わぁい、指噛ぢるこなしだでぁ。」
  がやがやがたがた。
  ところがキッコは席も一番はじで胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですからその中にはひりませんでした。机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした。

 〈たまり〉とは何だろう。〈あの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室〉とはどういう教室であろうか。〈胆取りと巡査〉とはいったいどのような遊びなのだろうか。いきなり分からないことだらけである。〈たまり〉とは皆が集まれる集会場のような所、例えば体育館のような所を意味しているのだろうか。〈あの水車小屋みたいな〉と言われても、その水車小屋が分からない。〈古臭い寒天のやうな教室〉と言われても、どうにも具体的なイメージが浮かばないのである。ただし、象徴的なレベルで見れば、この〈教室〉は〈母胎〉をイメージさせる。〈雨〉が降る、〈水車小屋〉みたいな〈古臭い寒天〉のような〈教室〉が〈母胎〉だとすれば、子供たちはこの〈母胎〉で遊びふざけているということになる。

それにしても、〈胆取り〉と〈巡査〉の遊びがよく分からない。〈胆取り〉は胆を取るというのであるからただごとではない。〈胆〉は胆臓で内臓の内でも重要な働きをする器官であり、これを取られたら命にかかわる。その〈胆〉を取るのが〈巡査〉であるのか、それとも逆に〈巡査〉が〈胆取り〉に胆を取られるというのか。書かれたテキストを読んだだけではよく分からないが、とりあえず分かるのは、教室で子供たちが二手に別れて「がやがやがたがた」遁げたり、押さえたり大騒ぎをしていたということである。

 注目すべきは、クラスの連中が大騒ぎを展開している最中、キッコだけがその仲間に加わっていなかったことである。キッコは別に仲間外れにされているのではなく、自分の意思でこの遊びに加わらなかったらしい。語り手の「胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですから」という説明がそのことを裏付けている。キッコの席が〈一番前のはじ〉にあったということは、彼女がこのクラスの中で一番背の低い生徒であったということを意味している。今はどうか知らないが、わたしが小学生の頃の席順は背の高さで決まっていた。キッコが女の子なのか男の子なのかはっきりと書かれているわけではないが、名前の下に〈コ〉が付いているのでいちおう〈女の子〉と見なして話を進めていくことにする。

 からだが小さくて弱いキッコは「胆取りと巡査にわかれてあばれ」るような遊びには加われなかったが、しかし彼女はそのことに何のかなしみも感じていない。否、それどころか彼女は自分一人の楽しみに耽っている。いったい彼女は何をしていたのだろうか。語り手は「机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした」と書いている。この語り手の語りだけを読めば、キッコのしていることは何かしら隠微な印象を受ける。キッコのこの行為は、何か彼女だけの秘密であり、誰にも知られてはならないことだったのではないか。クラスの連中は〈胆取りと巡査〉に夢中で、キッコが〈唇を噛んでにかにか笑ひ〉ながらしきりに何かしていることに注意しない。とりあえず、キッコの行為に特別な注意を払っているのは語り手のみである。

  キッコの手は霜やけで赤くふくれて居ました。五月になってもまだなほらなかったのです。右手の方のせなかにはあんまり泣いて潰れてしまった馬の目玉のやうな赤い円いかたがついてゐました。

 まず語り手はキッコの手に焦点を合わせる。キッコの手は〈霜やけ〉で〈赤〉くふくれている。右手のせなかには〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついている。五月(春)になっても治らない〈霜やけ〉・・キッコは貧しい家の子供で、おそらく家では家事手伝いやら、その他の仕事もしていたのだろう。キッコの〈霜やけ〉はそんなことを読者に感じさせる。しかし、それだけを感じていたのではケンジ童話の不気味で神秘的な世界への参入は拒まれる。霜やけの〈赤〉が、〈潰れてしまった馬の目玉〉のような〈赤い円いかた〉になって右手のせなかに残ったとき、〈霜やけ〉の〈赤〉が、単なる〈霜やけ〉の〈赤〉とは違った意味を持ちはじめるのだ。過酷な労働によってのみ、この〈赤〉は〈赤〉となったのではない。キッコにおける〈右手〉、すなわち〈にかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐる〉その右手のせなかに残った〈赤い円いかた〉に注目しなければ、キッコにおける〈赤〉の神秘性に撃たれることはない。

  キッコは一寸ばかりの鉛筆を一生けんめいひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐたのです。
 (めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、     )
  ところがみんなはずゐぶんひどくはねあるきました。キッコの机はたびたび誰かにぶっつかられて暗礁に乗りあげた船のやうにがたっとゆれました。そのたびにキッコの8の字は変な洋傘の柄のやうに変ったりしました。それでもやっぱりキッコはにかにか笑って書いてゐました。

 ここで語り手はタイトルの〈みじかい木ぺん〉が〈一寸ばかりの鉛筆〉であることを明らかにしている。しかし、こういった回答、ないし説明ほど読者は注意しなければならない。ケンジ童話の語り手は一筋縄ではいかないのだ。もし〈木ぺん〉が〈鉛筆〉であるなら、タイトルも〈みじかい鉛筆〉でよかったろう。なぜ語り手はわざわざ〈鉛筆〉を〈木ぺん〉などと言う必要があったろうか。もちろん、こういった疑問に対しては、キッコの村の子供たちは〈鉛筆〉を〈木ぺん〉と言っていたからだという説明がすぐになされるだろう。しかし、ケンジ童話においては、一つの〈語〉が様々な象徴的な意味を担って、多義的な世界を構築、ないしは内包していることはすでに検証済みである。〈木ぺん〉は単なる〈鉛筆〉ではないからこそ、〈木ぺん〉と表記されているのである。

 キッコがにかにかしながら書いていたのは横にした〈8の字〉であった。この横にした〈8の字〉はいったい何を意味しているのであろうか。キッコがぐうぜんにこの〈8の字〉を書いていたわけではなかろう。キッコがこの横にした〈8の字〉を「たくさん書いてゐた」ことには、彼女自身にも分からない意味が隠されているはずである。

 語り手はいつものように、読者を表層の次元にとどめ置こうとする。キッコの書いている横にした〈8の字〉は〈めがね〉ということになる。もちろんこの解釈は語り手のそれというよりは、キッコ自身のものである。〈めがね〉〈めがねの横めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉・・これらはキッコ自身が自分の書きつづけている〈横8の字〉に対する連想であり、そのことに対して語り手は何ら特別のコメントを加えているわけではない。しかし、そのことが語り手の巧妙な戦略の一部をなしているのである。読者はキッコがしきりに書いている〈何か〉が〈横8の字〉であることを知らされ、さらにそれが〈めがね〉であったことを知らされる。

 『貝の火』においてホモイが見た〈黒いもじゃもじゃしたもの〉は、語り手によって〈ひばりの子〉と確定されてしまう。しかし、『貝の火』というテキストが内包している神秘的な、不気味な世界に参入するためには、〈ひばりの子〉と確定された〈或るなにものか〉を再び〈黒いもじゃもじゃしたもの〉に引き戻す必要がある。

 わたしが〈横8の字〉からすぐに想起したのは無限を意味する記号〈∞〉である。キッコは〈無限〉にとらわれた子供であったのではないか。みんなが大騒ぎして遊んでいる〈胆取りと巡査〉などより、キッコは〈無限〉の謎を解く方が好きなのだ。換言すれば、キッコは〈無限〉に呪われた存在であり、〈無限〉とエロティックな、濃密な関係性を取り結んでいる存在なのである。キッコは単に〈横8の字〉を書いていたのではない。キッコの机はたびたび誰かにぶつけられてがたっと揺れても、それでもキッコは〈にかにか笑ひながら〉書き続けているのだ。これはただごとではない。書かれた次元で読んでも、キッコは普通の子供とは違った印象を受ける。

 キッコは〈横8の字〉を書きながら、それを〈横めがね〉や〈パン〉や〈鎖で繋がれためがね〉を連想しながら楽しんでいる。他の子供たちが自分のからだを思いきり動かすことで楽しんでいる時に、キッコだけが自分の想像力を発揮して楽しんでいる。しかもキッコのこの連想遊びの砦は強固で、ちっとやそっとでは崩れない。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(1)

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む

 ケンジ童話『みじかい木ぺん』に関してはすでに一度書き終えている。ところがこの『みじかい木ぺん』論が見当たらない。ここ二三日、家に保管してあるフロッピーと大学に保管してあるフロッピーのすべてを確認しなおしたがどこにもない。最初の記憶ではD文学通信に載せてあったように思い、合本(1032号まで)以降のものを確認したがそこにもない。そこでさらに記憶を辿ると、確かポケット3のメモリーカードが一枚壊れてしまったことがあった。もしかしたらこのメモリーカードに保存してあった可能性もある。とすれば、もはや『みじかい木ぺん』論を発見することはできない。印字してあればいいのだが、どうもその記憶もない。前に一度、メモリーカードが壊れて『千と千尋の神隠し』論が消えてしまい、初めから書き直したことがある。そのとき、書いた原稿は必ず印字しておかなければいけないと思ったのだが、同じ失敗を繰り返してしまったことになる。なんとも情けないことだが、仕方がない。また書き直すしかない。

 『みじかい木ぺん』に関しては、当時の授業で講義したことがあり、今回はその授業のことも視野に入れて論じることにする。

 

タイトル『みじかい木ぺん』の〈木ぺん〉をどのように読むか、という問いに対して〈もっぺん〉〈もくぺん〉〈きっぺん〉などが返ってきた。わたしは一人でこの作品を読んだ時は、素直に何も考えずに〈もっぺん〉と読み、それ以外の読み方など考えてもいなかったのであるが、授業においてはなるべく多くの学生に問いかけることにしているので、その時も〈木ぺん〉の読み方を意図的に問うことにしたのである。返ってきた答えで、改めて宮沢賢治が〈語〉に込めた多義性に気づかされることになる。

 さて、〈みじかい木ぺん〉とはいったい何を意味しているのか。まずはテキストを逐一追っていくことで検証していくことにしよう。

  キッコの村の学校にはたまりがありませんでしたから雨がふるとみんなは教室であそびました。ですから教室はあの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室でした。みんなは胆取りと巡査にわかれてあばれてゐます。
 「遁げだ、遁げだ、押へろ押へろ。」
 「わぁい、指噛ぢるこなしだでぁ。」
  がやがやがたがた。
  ところがキッコは席も一番はじで胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですからその中にはひりませんでした。机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした。

 〈たまり〉とは何だろう。〈あの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室〉とはどういう教室であろうか。〈胆取りと巡査〉とはいったいどのような遊びなのだろうか。いきなり分からないことだらけである。〈たまり〉とは皆が集まれる集会場のような所、例えば体育館のような所を意味しているのだろうか。〈あの水車小屋みたいな〉と言われても、その水車小屋が分からない。〈古臭い寒天のやうな教室〉と言われても、どうにも具体的なイメージが浮かばないのである。ただし、象徴的なレベルで見れば、この〈教室〉は〈母胎〉をイメージさせる。〈雨〉が降る、〈水車小屋〉みたいな〈古臭い寒天〉のような〈教室〉が〈母胎〉だとすれば、子供たちはこの〈母胎〉で遊びふざけているということになる。

それにしても、〈胆取り〉と〈巡査〉の遊びがよく分からない。〈胆取り〉は胆を取るというのであるからただごとではない。〈胆〉は胆臓で内臓の内でも重要な働きをする器官であり、これを取られたら命にかかわる。その〈胆〉を取るのが〈巡査〉であるのか、それとも逆に〈巡査〉が〈胆取り〉に胆を取られるというのか。書かれたテキストを読んだだけではよく分からないが、とりあえず分かるのは、教室で子供たちが二手に別れて「がやがやがたがた」遁げたり、押さえたり大騒ぎをしていたということである。

 注目すべきは、クラスの連中が大騒ぎを展開している最中、キッコだけがその仲間に加わっていなかったことである。キッコは別に仲間外れにされているのではなく、自分の意思でこの遊びに加わらなかったらしい。語り手の「胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですから」という説明がそのことを裏付けている。キッコの席が〈一番前のはじ〉にあったということは、彼女がこのクラスの中で一番背の低い生徒であったということを意味している。今はどうか知らないが、わたしが小学生の頃の席順は背の高さで決まっていた。キッコが女の子なのか男の子なのかはっきりと書かれているわけではないが、名前の下に〈コ〉が付いているのでいちおう〈女の子〉と見なして話を進めていくことにする。

 からだが小さくて弱いキッコは「胆取りと巡査にわかれてあばれ」るような遊びには加われなかったが、しかし彼女はそのことに何のかなしみも感じていない。否、それどころか彼女は自分一人の楽しみに耽っている。いったい彼女は何をしていたのだろうか。語り手は「机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした」と書いている。この語り手の語りだけを読めば、キッコのしていることは何かしら隠微な印象を受ける。キッコのこの行為は、何か彼女だけの秘密であり、誰にも知られてはならないことだったのではないか。クラスの連中は〈胆取りと巡査〉に夢中で、キッコが〈唇を噛んでにかにか笑ひ〉ながらしきりに何かしていることに注意しない。とりあえず、キッコの行為に特別な注意を払っているのは語り手のみである。

  キッコの手は霜やけで赤くふくれて居ました。五月になってもまだなほらなかったのです。右手の方のせなかにはあんまり泣いて潰れてしまった馬の目玉のやうな赤い円いかたがついてゐました。

 まず語り手はキッコの手に焦点を合わせる。キッコの手は〈霜やけ〉で〈赤〉くふくれている。右手のせなかには〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついている。五月(春)になっても治らない〈霜やけ〉・・キッコは貧しい家の子供で、おそらく家では家事手伝いやら、その他の仕事もしていたのだろう。キッコの〈霜やけ〉はそんなことを読者に感じさせる。しかし、それだけを感じていたのではケンジ童話の不気味で神秘的な世界への参入は拒まれる。霜やけの〈赤〉が、〈潰れてしまった馬の目玉〉のような〈赤い円いかた〉になって右手のせなかに残ったとき、〈霜やけ〉の〈赤〉が、単なる〈霜やけ〉の〈赤〉とは違った意味を持ちはじめるのだ。過酷な労働によってのみ、この〈赤〉は〈赤〉となったのではない。キッコにおける〈右手〉、すなわち〈にかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐる〉その右手のせなかに残った〈赤い円いかた〉に注目しなければ、キッコにおける〈赤〉の神秘性に撃たれることはない。

  キッコは一寸ばかりの鉛筆を一生けんめいひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐたのです。
 (めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、     )
  ところがみんなはずゐぶんひどくはねあるきました。キッコの机はたびたび誰かにぶっつかられて暗礁に乗りあげた船のやうにがたっとゆれました。そのたびにキッコの8の字は変な洋傘の柄のやうに変ったりしました。それでもやっぱりキッコはにかにか笑って書いてゐました。

 ここで語り手はタイトルの〈みじかい木ぺん〉が〈一寸ばかりの鉛筆〉であることを明らかにしている。しかし、こういった回答、ないし説明ほど読者は注意しなければならない。ケンジ童話の語り手は一筋縄ではいかないのだ。もし〈木ぺん〉が〈鉛筆〉であるなら、タイトルも〈みじかい鉛筆〉でよかったろう。なぜ語り手はわざわざ〈鉛筆〉を〈木ぺん〉などと言う必要があったろうか。もちろん、こういった疑問に対しては、キッコの村の子供たちは〈鉛筆〉を〈木ぺん〉と言っていたからだという説明がすぐになされるだろう。しかし、ケンジ童話においては、一つの〈語〉が様々な象徴的な意味を担って、多義的な世界を構築、ないしは内包していることはすでに検証済みである。〈木ぺん〉は単なる〈鉛筆〉ではないからこそ、〈木ぺん〉と表記されているのである。

 キッコがにかにかしながら書いていたのは横にした〈8の字〉であった。この横にした〈8の字〉はいったい何を意味しているのであろうか。キッコがぐうぜんにこの〈8の字〉を書いていたわけではなかろう。キッコがこの横にした〈8の字〉を「たくさん書いてゐた」ことには、彼女自身にも分からない意味が隠されているはずである。

 語り手はいつものように、読者を表層の次元にとどめ置こうとする。キッコの書いている横にした〈8の字〉は〈めがね〉ということになる。もちろんこの解釈は語り手のそれというよりは、キッコ自身のものである。〈めがね〉〈めがねの横めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉・・これらはキッコ自身が自分の書きつづけている〈横8の字〉に対する連想であり、そのことに対して語り手は何ら特別のコメントを加えているわけではない。しかし、そのことが語り手の巧妙な戦略の一部をなしているのである。読者はキッコがしきりに書いている〈何か〉が〈横8の字〉であることを知らされ、さらにそれが〈めがね〉であったことを知らされる。

 『貝の火』においてホモイが見た〈黒いもじゃもじゃしたもの〉は、語り手によって〈ひばりの子〉と確定されてしまう。しかし、『貝の火』というテキストが内包している神秘的な、不気味な世界に参入するためには、〈ひばりの子〉と確定された〈或るなにものか〉を再び〈黒いもじゃもじゃしたもの〉に引き戻す必要がある。

 わたしが〈横8の字〉からすぐに想起したのは無限を意味する記号〈∞〉である。キッコは〈無限〉にとらわれた子供であったのではないか。みんなが大騒ぎして遊んでいる〈胆取りと巡査〉などより、キッコは〈無限〉の謎を解く方が好きなのだ。換言すれば、キッコは〈無限〉に呪われた存在であり、〈無限〉とエロティックな、濃密な関係性を取り結んでいる存在なのである。キッコは単に〈横8の字〉を書いていたのではない。キッコの机はたびたび誰かにぶつけられてがたっと揺れても、それでもキッコは〈にかにか笑ひながら〉書き続けているのだ。これはただごとではない。書かれた次元で読んでも、キッコは普通の子供とは違った印象を受ける。

 キッコは〈横8の字〉を書きながら、それを〈横めがね〉や〈パン〉や〈鎖で繋がれためがね〉を連想しながら楽しんでいる。他の子供たちが自分のからだを思いきり動かすことで楽しんでいる時に、キッコだけが自分の想像力を発揮して楽しんでいる。しかもキッコのこの連想遊びの砦は強固で、ちっとやそっとでは崩れない。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(1)

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む

 ケンジ童話『みじかい木ぺん』に関してはすでに一度書き終えている。ところがこの『みじかい木ぺん』論が見当たらない。ここ二三日、家に保管してあるフロッピーと大学に保管してあるフロッピーのすべてを確認しなおしたがどこにもない。最初の記憶ではD文学通信に載せてあったように思い、合本(1032号まで)以降のものを確認したがそこにもない。そこでさらに記憶を辿ると、確かポケット3のメモリーカードが一枚壊れてしまったことがあった。もしかしたらこのメモリーカードに保存してあった可能性もある。とすれば、もはや『みじかい木ぺん』論を発見することはできない。印字してあればいいのだが、どうもその記憶もない。前に一度、メモリーカードが壊れて『千と千尋の神隠し』論が消えてしまい、初めから書き直したことがある。そのとき、書いた原稿は必ず印字しておかなければいけないと思ったのだが、同じ失敗を繰り返してしまったことになる。なんとも情けないことだが、仕方がない。また書き直すしかない。

 『みじかい木ぺん』に関しては、当時の授業で講義したことがあり、今回はその授業のことも視野に入れて論じることにする。

 

タイトル『みじかい木ぺん』の〈木ぺん〉をどのように読むか、という問いに対して〈もっぺん〉〈もくぺん〉〈きっぺん〉などが返ってきた。わたしは一人でこの作品を読んだ時は、素直に何も考えずに〈もっぺん〉と読み、それ以外の読み方など考えてもいなかったのであるが、授業においてはなるべく多くの学生に問いかけることにしているので、その時も〈木ぺん〉の読み方を意図的に問うことにしたのである。返ってきた答えで、改めて宮沢賢治が〈語〉に込めた多義性に気づかされることになる。

 さて、〈みじかい木ぺん〉とはいったい何を意味しているのか。まずはテキストを逐一追っていくことで検証していくことにしよう。

  キッコの村の学校にはたまりがありませんでしたから雨がふるとみんなは教室であそびました。ですから教室はあの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室でした。みんなは胆取りと巡査にわかれてあばれてゐます。
 「遁げだ、遁げだ、押へろ押へろ。」
 「わぁい、指噛ぢるこなしだでぁ。」
  がやがやがたがた。
  ところがキッコは席も一番はじで胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですからその中にはひりませんでした。机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした。

 〈たまり〉とは何だろう。〈あの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室〉とはどういう教室であろうか。〈胆取りと巡査〉とはいったいどのような遊びなのだろうか。いきなり分からないことだらけである。〈たまり〉とは皆が集まれる集会場のような所、例えば体育館のような所を意味しているのだろうか。〈あの水車小屋みたいな〉と言われても、その水車小屋が分からない。〈古臭い寒天のやうな教室〉と言われても、どうにも具体的なイメージが浮かばないのである。ただし、象徴的なレベルで見れば、この〈教室〉は〈母胎〉をイメージさせる。〈雨〉が降る、〈水車小屋〉みたいな〈古臭い寒天〉のような〈教室〉が〈母胎〉だとすれば、子供たちはこの〈母胎〉で遊びふざけているということになる。

それにしても、〈胆取り〉と〈巡査〉の遊びがよく分からない。〈胆取り〉は胆を取るというのであるからただごとではない。〈胆〉は胆臓で内臓の内でも重要な働きをする器官であり、これを取られたら命にかかわる。その〈胆〉を取るのが〈巡査〉であるのか、それとも逆に〈巡査〉が〈胆取り〉に胆を取られるというのか。書かれたテキストを読んだだけではよく分からないが、とりあえず分かるのは、教室で子供たちが二手に別れて「がやがやがたがた」遁げたり、押さえたり大騒ぎをしていたということである。

 注目すべきは、クラスの連中が大騒ぎを展開している最中、キッコだけがその仲間に加わっていなかったことである。キッコは別に仲間外れにされているのではなく、自分の意思でこの遊びに加わらなかったらしい。語り手の「胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですから」という説明がそのことを裏付けている。キッコの席が〈一番前のはじ〉にあったということは、彼女がこのクラスの中で一番背の低い生徒であったということを意味している。今はどうか知らないが、わたしが小学生の頃の席順は背の高さで決まっていた。キッコが女の子なのか男の子なのかはっきりと書かれているわけではないが、名前の下に〈コ〉が付いているのでいちおう〈女の子〉と見なして話を進めていくことにする。

 からだが小さくて弱いキッコは「胆取りと巡査にわかれてあばれ」るような遊びには加われなかったが、しかし彼女はそのことに何のかなしみも感じていない。否、それどころか彼女は自分一人の楽しみに耽っている。いったい彼女は何をしていたのだろうか。語り手は「机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした」と書いている。この語り手の語りだけを読めば、キッコのしていることは何かしら隠微な印象を受ける。キッコのこの行為は、何か彼女だけの秘密であり、誰にも知られてはならないことだったのではないか。クラスの連中は〈胆取りと巡査〉に夢中で、キッコが〈唇を噛んでにかにか笑ひ〉ながらしきりに何かしていることに注意しない。とりあえず、キッコの行為に特別な注意を払っているのは語り手のみである。

  キッコの手は霜やけで赤くふくれて居ました。五月になってもまだなほらなかったのです。右手の方のせなかにはあんまり泣いて潰れてしまった馬の目玉のやうな赤い円いかたがついてゐました。

 まず語り手はキッコの手に焦点を合わせる。キッコの手は〈霜やけ〉で〈赤〉くふくれている。右手のせなかには〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついている。五月(春)になっても治らない〈霜やけ〉・・キッコは貧しい家の子供で、おそらく家では家事手伝いやら、その他の仕事もしていたのだろう。キッコの〈霜やけ〉はそんなことを読者に感じさせる。しかし、それだけを感じていたのではケンジ童話の不気味で神秘的な世界への参入は拒まれる。霜やけの〈赤〉が、〈潰れてしまった馬の目玉〉のような〈赤い円いかた〉になって右手のせなかに残ったとき、〈霜やけ〉の〈赤〉が、単なる〈霜やけ〉の〈赤〉とは違った意味を持ちはじめるのだ。過酷な労働によってのみ、この〈赤〉は〈赤〉となったのではない。キッコにおける〈右手〉、すなわち〈にかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐる〉その右手のせなかに残った〈赤い円いかた〉に注目しなければ、キッコにおける〈赤〉の神秘性に撃たれることはない。

  キッコは一寸ばかりの鉛筆を一生けんめいひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐたのです。
 (めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、     )
  ところがみんなはずゐぶんひどくはねあるきました。キッコの机はたびたび誰かにぶっつかられて暗礁に乗りあげた船のやうにがたっとゆれました。そのたびにキッコの8の字は変な洋傘の柄のやうに変ったりしました。それでもやっぱりキッコはにかにか笑って書いてゐました。

 ここで語り手はタイトルの〈みじかい木ぺん〉が〈一寸ばかりの鉛筆〉であることを明らかにしている。しかし、こういった回答、ないし説明ほど読者は注意しなければならない。ケンジ童話の語り手は一筋縄ではいかないのだ。もし〈木ぺん〉が〈鉛筆〉であるなら、タイトルも〈みじかい鉛筆〉でよかったろう。なぜ語り手はわざわざ〈鉛筆〉を〈木ぺん〉などと言う必要があったろうか。もちろん、こういった疑問に対しては、キッコの村の子供たちは〈鉛筆〉を〈木ぺん〉と言っていたからだという説明がすぐになされるだろう。しかし、ケンジ童話においては、一つの〈語〉が様々な象徴的な意味を担って、多義的な世界を構築、ないしは内包していることはすでに検証済みである。〈木ぺん〉は単なる〈鉛筆〉ではないからこそ、〈木ぺん〉と表記されているのである。

 キッコがにかにかしながら書いていたのは横にした〈8の字〉であった。この横にした〈8の字〉はいったい何を意味しているのであろうか。キッコがぐうぜんにこの〈8の字〉を書いていたわけではなかろう。キッコがこの横にした〈8の字〉を「たくさん書いてゐた」ことには、彼女自身にも分からない意味が隠されているはずである。

 語り手はいつものように、読者を表層の次元にとどめ置こうとする。キッコの書いている横にした〈8の字〉は〈めがね〉ということになる。もちろんこの解釈は語り手のそれというよりは、キッコ自身のものである。〈めがね〉〈めがねの横めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉・・これらはキッコ自身が自分の書きつづけている〈横8の字〉に対する連想であり、そのことに対して語り手は何ら特別のコメントを加えているわけではない。しかし、そのことが語り手の巧妙な戦略の一部をなしているのである。読者はキッコがしきりに書いている〈何か〉が〈横8の字〉であることを知らされ、さらにそれが〈めがね〉であったことを知らされる。

 『貝の火』においてホモイが見た〈黒いもじゃもじゃしたもの〉は、語り手によって〈ひばりの子〉と確定されてしまう。しかし、『貝の火』というテキストが内包している神秘的な、不気味な世界に参入するためには、〈ひばりの子〉と確定された〈或るなにものか〉を再び〈黒いもじゃもじゃしたもの〉に引き戻す必要がある。

 わたしが〈横8の字〉からすぐに想起したのは無限を意味する記号〈∞〉である。キッコは〈無限〉にとらわれた子供であったのではないか。みんなが大騒ぎして遊んでいる〈胆取りと巡査〉などより、キッコは〈無限〉の謎を解く方が好きなのだ。換言すれば、キッコは〈無限〉に呪われた存在であり、〈無限〉とエロティックな、濃密な関係性を取り結んでいる存在なのである。キッコは単に〈横8の字〉を書いていたのではない。キッコの机はたびたび誰かにぶつけられてがたっと揺れても、それでもキッコは〈にかにか笑ひながら〉書き続けているのだ。これはただごとではない。書かれた次元で読んでも、キッコは普通の子供とは違った印象を受ける。

 キッコは〈横8の字〉を書きながら、それを〈横めがね〉や〈パン〉や〈鎖で繋がれためがね〉を連想しながら楽しんでいる。他の子供たちが自分のからだを思いきり動かすことで楽しんでいる時に、キッコだけが自分の想像力を発揮して楽しんでいる。しかもキッコのこの連想遊びの砦は強固で、ちっとやそっとでは崩れない。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(1)

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む

 ケンジ童話『みじかい木ぺん』に関してはすでに一度書き終えている。ところがこの『みじかい木ぺん』論が見当たらない。ここ二三日、家に保管してあるフロッピーと大学に保管してあるフロッピーのすべてを確認しなおしたがどこにもない。最初の記憶ではD文学通信に載せてあったように思い、合本(1032号まで)以降のものを確認したがそこにもない。そこでさらに記憶を辿ると、確かポケット3のメモリーカードが一枚壊れてしまったことがあった。もしかしたらこのメモリーカードに保存してあった可能性もある。とすれば、もはや『みじかい木ぺん』論を発見することはできない。印字してあればいいのだが、どうもその記憶もない。前に一度、メモリーカードが壊れて『千と千尋の神隠し』論が消えてしまい、初めから書き直したことがある。そのとき、書いた原稿は必ず印字しておかなければいけないと思ったのだが、同じ失敗を繰り返してしまったことになる。なんとも情けないことだが、仕方がない。また書き直すしかない。

 『みじかい木ぺん』に関しては、当時の授業で講義したことがあり、今回はその授業のことも視野に入れて論じることにする。

 

タイトル『みじかい木ぺん』の〈木ぺん〉をどのように読むか、という問いに対して〈もっぺん〉〈もくぺん〉〈きっぺん〉などが返ってきた。わたしは一人でこの作品を読んだ時は、素直に何も考えずに〈もっぺん〉と読み、それ以外の読み方など考えてもいなかったのであるが、授業においてはなるべく多くの学生に問いかけることにしているので、その時も〈木ぺん〉の読み方を意図的に問うことにしたのである。返ってきた答えで、改めて宮沢賢治が〈語〉に込めた多義性に気づかされることになる。

 さて、〈みじかい木ぺん〉とはいったい何を意味しているのか。まずはテキストを逐一追っていくことで検証していくことにしよう。

  キッコの村の学校にはたまりがありませんでしたから雨がふるとみんなは教室であそびました。ですから教室はあの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室でした。みんなは胆取りと巡査にわかれてあばれてゐます。
 「遁げだ、遁げだ、押へろ押へろ。」
 「わぁい、指噛ぢるこなしだでぁ。」
  がやがやがたがた。
  ところがキッコは席も一番はじで胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですからその中にはひりませんでした。机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした。

 〈たまり〉とは何だろう。〈あの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室〉とはどういう教室であろうか。〈胆取りと巡査〉とはいったいどのような遊びなのだろうか。いきなり分からないことだらけである。〈たまり〉とは皆が集まれる集会場のような所、例えば体育館のような所を意味しているのだろうか。〈あの水車小屋みたいな〉と言われても、その水車小屋が分からない。〈古臭い寒天のやうな教室〉と言われても、どうにも具体的なイメージが浮かばないのである。ただし、象徴的なレベルで見れば、この〈教室〉は〈母胎〉をイメージさせる。〈雨〉が降る、〈水車小屋〉みたいな〈古臭い寒天〉のような〈教室〉が〈母胎〉だとすれば、子供たちはこの〈母胎〉で遊びふざけているということになる。

それにしても、〈胆取り〉と〈巡査〉の遊びがよく分からない。〈胆取り〉は胆を取るというのであるからただごとではない。〈胆〉は胆臓で内臓の内でも重要な働きをする器官であり、これを取られたら命にかかわる。その〈胆〉を取るのが〈巡査〉であるのか、それとも逆に〈巡査〉が〈胆取り〉に胆を取られるというのか。書かれたテキストを読んだだけではよく分からないが、とりあえず分かるのは、教室で子供たちが二手に別れて「がやがやがたがた」遁げたり、押さえたり大騒ぎをしていたということである。

 注目すべきは、クラスの連中が大騒ぎを展開している最中、キッコだけがその仲間に加わっていなかったことである。キッコは別に仲間外れにされているのではなく、自分の意思でこの遊びに加わらなかったらしい。語り手の「胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですから」という説明がそのことを裏付けている。キッコの席が〈一番前のはじ〉にあったということは、彼女がこのクラスの中で一番背の低い生徒であったということを意味している。今はどうか知らないが、わたしが小学生の頃の席順は背の高さで決まっていた。キッコが女の子なのか男の子なのかはっきりと書かれているわけではないが、名前の下に〈コ〉が付いているのでいちおう〈女の子〉と見なして話を進めていくことにする。

 からだが小さくて弱いキッコは「胆取りと巡査にわかれてあばれ」るような遊びには加われなかったが、しかし彼女はそのことに何のかなしみも感じていない。否、それどころか彼女は自分一人の楽しみに耽っている。いったい彼女は何をしていたのだろうか。語り手は「机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした」と書いている。この語り手の語りだけを読めば、キッコのしていることは何かしら隠微な印象を受ける。キッコのこの行為は、何か彼女だけの秘密であり、誰にも知られてはならないことだったのではないか。クラスの連中は〈胆取りと巡査〉に夢中で、キッコが〈唇を噛んでにかにか笑ひ〉ながらしきりに何かしていることに注意しない。とりあえず、キッコの行為に特別な注意を払っているのは語り手のみである。

  キッコの手は霜やけで赤くふくれて居ました。五月になってもまだなほらなかったのです。右手の方のせなかにはあんまり泣いて潰れてしまった馬の目玉のやうな赤い円いかたがついてゐました。

 まず語り手はキッコの手に焦点を合わせる。キッコの手は〈霜やけ〉で〈赤〉くふくれている。右手のせなかには〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついている。五月(春)になっても治らない〈霜やけ〉・・キッコは貧しい家の子供で、おそらく家では家事手伝いやら、その他の仕事もしていたのだろう。キッコの〈霜やけ〉はそんなことを読者に感じさせる。しかし、それだけを感じていたのではケンジ童話の不気味で神秘的な世界への参入は拒まれる。霜やけの〈赤〉が、〈潰れてしまった馬の目玉〉のような〈赤い円いかた〉になって右手のせなかに残ったとき、〈霜やけ〉の〈赤〉が、単なる〈霜やけ〉の〈赤〉とは違った意味を持ちはじめるのだ。過酷な労働によってのみ、この〈赤〉は〈赤〉となったのではない。キッコにおける〈右手〉、すなわち〈にかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐる〉その右手のせなかに残った〈赤い円いかた〉に注目しなければ、キッコにおける〈赤〉の神秘性に撃たれることはない。

  キッコは一寸ばかりの鉛筆を一生けんめいひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐたのです。
 (めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、     )
  ところがみんなはずゐぶんひどくはねあるきました。キッコの机はたびたび誰かにぶっつかられて暗礁に乗りあげた船のやうにがたっとゆれました。そのたびにキッコの8の字は変な洋傘の柄のやうに変ったりしました。それでもやっぱりキッコはにかにか笑って書いてゐました。

 ここで語り手はタイトルの〈みじかい木ぺん〉が〈一寸ばかりの鉛筆〉であることを明らかにしている。しかし、こういった回答、ないし説明ほど読者は注意しなければならない。ケンジ童話の語り手は一筋縄ではいかないのだ。もし〈木ぺん〉が〈鉛筆〉であるなら、タイトルも〈みじかい鉛筆〉でよかったろう。なぜ語り手はわざわざ〈鉛筆〉を〈木ぺん〉などと言う必要があったろうか。もちろん、こういった疑問に対しては、キッコの村の子供たちは〈鉛筆〉を〈木ぺん〉と言っていたからだという説明がすぐになされるだろう。しかし、ケンジ童話においては、一つの〈語〉が様々な象徴的な意味を担って、多義的な世界を構築、ないしは内包していることはすでに検証済みである。〈木ぺん〉は単なる〈鉛筆〉ではないからこそ、〈木ぺん〉と表記されているのである。

 キッコがにかにかしながら書いていたのは横にした〈8の字〉であった。この横にした〈8の字〉はいったい何を意味しているのであろうか。キッコがぐうぜんにこの〈8の字〉を書いていたわけではなかろう。キッコがこの横にした〈8の字〉を「たくさん書いてゐた」ことには、彼女自身にも分からない意味が隠されているはずである。

 語り手はいつものように、読者を表層の次元にとどめ置こうとする。キッコの書いている横にした〈8の字〉は〈めがね〉ということになる。もちろんこの解釈は語り手のそれというよりは、キッコ自身のものである。〈めがね〉〈めがねの横めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉・・これらはキッコ自身が自分の書きつづけている〈横8の字〉に対する連想であり、そのことに対して語り手は何ら特別のコメントを加えているわけではない。しかし、そのことが語り手の巧妙な戦略の一部をなしているのである。読者はキッコがしきりに書いている〈何か〉が〈横8の字〉であることを知らされ、さらにそれが〈めがね〉であったことを知らされる。

 『貝の火』においてホモイが見た〈黒いもじゃもじゃしたもの〉は、語り手によって〈ひばりの子〉と確定されてしまう。しかし、『貝の火』というテキストが内包している神秘的な、不気味な世界に参入するためには、〈ひばりの子〉と確定された〈或るなにものか〉を再び〈黒いもじゃもじゃしたもの〉に引き戻す必要がある。

 わたしが〈横8の字〉からすぐに想起したのは無限を意味する記号〈∞〉である。キッコは〈無限〉にとらわれた子供であったのではないか。みんなが大騒ぎして遊んでいる〈胆取りと巡査〉などより、キッコは〈無限〉の謎を解く方が好きなのだ。換言すれば、キッコは〈無限〉に呪われた存在であり、〈無限〉とエロティックな、濃密な関係性を取り結んでいる存在なのである。キッコは単に〈横8の字〉を書いていたのではない。キッコの机はたびたび誰かにぶつけられてがたっと揺れても、それでもキッコは〈にかにか笑ひながら〉書き続けているのだ。これはただごとではない。書かれた次元で読んでも、キッコは普通の子供とは違った印象を受ける。

 キッコは〈横8の字〉を書きながら、それを〈横めがね〉や〈パン〉や〈鎖で繋がれためがね〉を連想しながら楽しんでいる。他の子供たちが自分のからだを思いきり動かすことで楽しんでいる時に、キッコだけが自分の想像力を発揮して楽しんでいる。しかもキッコのこの連想遊びの砦は強固で、ちっとやそっとでは崩れない。

2004年5月 2日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(2)

 「キッコ、汝の木ぺん見せろ。」にはかに巡査の慶助が来てキッコの鉛筆をとってしまひました。
 「見なくてもい、よごせ。」キッコは立ちあがりましたけれども慶助がせいの高井やつでそれに牛若丸のやうにうしろの机の上にはねあがってしまひましたからキッコは手がとゞきませんでした。
 「ほ、この木ぺん、この木ぺん。」慶助はいかにもをかしさうに顔をまっかにして自分の眼の前でうごかしてゐました。
 「よごせ慶助わあい。」キッコは一生けん命のびあがって慶助の手をおろさうとしましたが慶助はそれをはなして一つうしろの机ににげてしまひました。そして「いがキッコこの木ぺん耳さ入るぢゃい。」と云ひながらほんたうにキッコの鉛筆を耳に入れてしまったやうでした。キッコは泣いて追ひかけましたけれども慶助はもうひらっと廊下へ出てそれからどこかへかくれてしまひました。キッコはすっかり気持をわるくしてだまって窓へ行って顔を出して雨だれを見てゐました。そのうち授業のかねがなって慶助は教室に帰って来遠くからキッコをちらっとみましたが、又どこかであばれて来たと見えて鉛筆のことなどは忘れてしまったといふ風に顔をまっかにしてふうふう息をついてゐました。
 「わあい、慶助、木ぺん返せぢゃ。」木ぺんは叫びました。
 「知らないぢゃ、うなの机さ投げてたぢゃ。」慶助は云ひました。キッコはかゞんで机のまはりをさがしましたがありませんでした。そのうちに先生が入って来ました。
 「三郎、この時間うな木ぺん使ってがら、おれさ貸せな。」キッコがとなりの三郎に云ひました。
 「うん、」三郎が机の蓋をあけてあけて本や練習帖を出しながら上のそらで答へました。

 キッコの〈木ぺん〉を見せろと言って来たのは〈巡査〉の慶助である。そして慶助は木ぺんの〈鉛筆〉を奪ってしまう。テキスト表層を読んだだけでは別になんてことはない。小学生の教室にありがちな悪ふざけの一種に過ぎない。しかしこの場面を象徴的なレベルで読んでいくと、とんでもない意味が隠されていたことになる。もう一度、キッコの持っていた〈木ぺん〉に注目することにしよう。この〈木ぺん〉は〈ペニス〉の隠喩でもある。キッコは一番前の席に座って下を向き、唇を噛み、にかにかしながら〈ペニス〉を弄んでいたことになる。キッコが女の子であれば、彼女自身の〈ペニス〉ではないということになるが、もし男の子であれば当然自分のものということになる。キッコは両性具有的な存在とも解釈できるが、ここではキッコの性別にはこだわらず、あくまでも〈木ぺん=ペニス〉の文脈で考えていくことにする。

 〈ペニス〉を弄ぶことは、言わば自慰行為であり、人目に晒されていいことではない。キッコが夢中になって自慰行為に耽ることはタブーであり、それは発見されれば厳しく罰せられることになる。キッコの〈木ぺん=ペニス〉を奪った慶助が〈巡査〉であったことは、従って偶然とは言えない。キッコはにかにか笑いながら自慰行為に耽りながら、その行為を〈横8の字〉を書く行為に装って正当化を図っていた。もし発見されても、いやおれはただ〈横8の字〉を書いていただけだという弁明ができる。それは〈めがね〉であり、〈めがねパン〉であり、〈くさりのめがね〉であり、〈洋傘の柄〉ではあって、決して疚しいことをしていたのではないというわけである。

 〈巡査〉の慶助はキッコから〈木ぺん=ペニス〉を取り上げると、それを「いかにもをかしさうに顔をまっかにして笑って自分の眼の前でうごかして」みたりする。この慶助のふざけた行為は、キッコの〈自慰行為〉を模倣することによってクラス全員にその罪を知らしめ、糾弾する意味を担っている。キッコの手が「赤くふくれて」いたのは、キッコの右手のせなかに〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついていたのは、単に〈霜やけ〉のせいではなかったのである。キッコは一人、自分の〈木ぺん=ペニス〉を「一生けん命に
ぎってにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いていた」・・まさにそのような方法で自慰行為に耽っていたのである。〈木ぺん=ペニス〉を横8の字風に動かしこすりながら自慰行為をすれば、やがては〈木ぺん=ペニス〉が口にしていた、あるいは呪文のように唱えていた(めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、      )のなかの    は〈スペルマ〉(精子)ということになる。

 さらに慶助がキッコの〈木ぺん=ペニス〉を自分の耳に入れてふざけていることにも注目しよう。〈耳〉は〈女性器〉の隠喩である。まさに慶助はここでもキッコの〈木ぺん=鉛筆〉を〈ペニス〉の代用としてふざけているのである。

 慶助はキッコに木ぺんを返さない。慶助はその木ぺんをどうしてしまったのか。語り手は何も説明しない。ただ、明確なのは、もはやキッコには自分の〈みじかい木ぺん〉はなくなってしまったという、その事実だけである。、それではこの事実、キッコが〈巡査〉に〈木ぺん=ペニス〉を奪われてしまったという〈事実〉をどのように解釈したらいいだろうか。この時点で考えられるのは、キッコは自慰行為の〈罰〉として去勢させられてしまったということである。

 さて、今の所、〈横8の字〉は〈めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉〈洋傘の柄〉などの他に〈無限記号∞〉〈スペルマ〉などの隠喩となっていると考えられるが、実は他にも重要な意味が隠されている。その点に関しては後に照明を当てることにして、とりあえず第二幕目を見ることにしよう。

  課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

  キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。
 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(2)

 「キッコ、汝の木ぺん見せろ。」にはかに巡査の慶助が来てキッコの鉛筆をとってしまひました。
 「見なくてもい、よごせ。」キッコは立ちあがりましたけれども慶助がせいの高井やつでそれに牛若丸のやうにうしろの机の上にはねあがってしまひましたからキッコは手がとゞきませんでした。
 「ほ、この木ぺん、この木ぺん。」慶助はいかにもをかしさうに顔をまっかにして自分の眼の前でうごかしてゐました。
 「よごせ慶助わあい。」キッコは一生けん命のびあがって慶助の手をおろさうとしましたが慶助はそれをはなして一つうしろの机ににげてしまひました。そして「いがキッコこの木ぺん耳さ入るぢゃい。」と云ひながらほんたうにキッコの鉛筆を耳に入れてしまったやうでした。キッコは泣いて追ひかけましたけれども慶助はもうひらっと廊下へ出てそれからどこかへかくれてしまひました。キッコはすっかり気持をわるくしてだまって窓へ行って顔を出して雨だれを見てゐました。そのうち授業のかねがなって慶助は教室に帰って来遠くからキッコをちらっとみましたが、又どこかであばれて来たと見えて鉛筆のことなどは忘れてしまったといふ風に顔をまっかにしてふうふう息をついてゐました。
 「わあい、慶助、木ぺん返せぢゃ。」木ぺんは叫びました。
 「知らないぢゃ、うなの机さ投げてたぢゃ。」慶助は云ひました。キッコはかゞんで机のまはりをさがしましたがありませんでした。そのうちに先生が入って来ました。
 「三郎、この時間うな木ぺん使ってがら、おれさ貸せな。」キッコがとなりの三郎に云ひました。
 「うん、」三郎が机の蓋をあけてあけて本や練習帖を出しながら上のそらで答へました。

 キッコの〈木ぺん〉を見せろと言って来たのは〈巡査〉の慶助である。そして慶助は木ぺんの〈鉛筆〉を奪ってしまう。テキスト表層を読んだだけでは別になんてことはない。小学生の教室にありがちな悪ふざけの一種に過ぎない。しかしこの場面を象徴的なレベルで読んでいくと、とんでもない意味が隠されていたことになる。もう一度、キッコの持っていた〈木ぺん〉に注目することにしよう。この〈木ぺん〉は〈ペニス〉の隠喩でもある。キッコは一番前の席に座って下を向き、唇を噛み、にかにかしながら〈ペニス〉を弄んでいたことになる。キッコが女の子であれば、彼女自身の〈ペニス〉ではないということになるが、もし男の子であれば当然自分のものということになる。キッコは両性具有的な存在とも解釈できるが、ここではキッコの性別にはこだわらず、あくまでも〈木ぺん=ペニス〉の文脈で考えていくことにする。

 〈ペニス〉を弄ぶことは、言わば自慰行為であり、人目に晒されていいことではない。キッコが夢中になって自慰行為に耽ることはタブーであり、それは発見されれば厳しく罰せられることになる。キッコの〈木ぺん=ペニス〉を奪った慶助が〈巡査〉であったことは、従って偶然とは言えない。キッコはにかにか笑いながら自慰行為に耽りながら、その行為を〈横8の字〉を書く行為に装って正当化を図っていた。もし発見されても、いやおれはただ〈横8の字〉を書いていただけだという弁明ができる。それは〈めがね〉であり、〈めがねパン〉であり、〈くさりのめがね〉であり、〈洋傘の柄〉ではあって、決して疚しいことをしていたのではないというわけである。

 〈巡査〉の慶助はキッコから〈木ぺん=ペニス〉を取り上げると、それを「いかにもをかしさうに顔をまっかにして笑って自分の眼の前でうごかして」みたりする。この慶助のふざけた行為は、キッコの〈自慰行為〉を模倣することによってクラス全員にその罪を知らしめ、糾弾する意味を担っている。キッコの手が「赤くふくれて」いたのは、キッコの右手のせなかに〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついていたのは、単に〈霜やけ〉のせいではなかったのである。キッコは一人、自分の〈木ぺん=ペニス〉を「一生けん命に
ぎってにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いていた」・・まさにそのような方法で自慰行為に耽っていたのである。〈木ぺん=ペニス〉を横8の字風に動かしこすりながら自慰行為をすれば、やがては〈木ぺん=ペニス〉が口にしていた、あるいは呪文のように唱えていた(めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、      )のなかの    は〈スペルマ〉(精子)ということになる。

 さらに慶助がキッコの〈木ぺん=ペニス〉を自分の耳に入れてふざけていることにも注目しよう。〈耳〉は〈女性器〉の隠喩である。まさに慶助はここでもキッコの〈木ぺん=鉛筆〉を〈ペニス〉の代用としてふざけているのである。

 慶助はキッコに木ぺんを返さない。慶助はその木ぺんをどうしてしまったのか。語り手は何も説明しない。ただ、明確なのは、もはやキッコには自分の〈みじかい木ぺん〉はなくなってしまったという、その事実だけである。、それではこの事実、キッコが〈巡査〉に〈木ぺん=ペニス〉を奪われてしまったという〈事実〉をどのように解釈したらいいだろうか。この時点で考えられるのは、キッコは自慰行為の〈罰〉として去勢させられてしまったということである。

 さて、今の所、〈横8の字〉は〈めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉〈洋傘の柄〉などの他に〈無限記号∞〉〈スペルマ〉などの隠喩となっていると考えられるが、実は他にも重要な意味が隠されている。その点に関しては後に照明を当てることにして、とりあえず第二幕目を見ることにしよう。

  課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

  キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。
 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(2)

 「キッコ、汝の木ぺん見せろ。」にはかに巡査の慶助が来てキッコの鉛筆をとってしまひました。
 「見なくてもい、よごせ。」キッコは立ちあがりましたけれども慶助がせいの高井やつでそれに牛若丸のやうにうしろの机の上にはねあがってしまひましたからキッコは手がとゞきませんでした。
 「ほ、この木ぺん、この木ぺん。」慶助はいかにもをかしさうに顔をまっかにして自分の眼の前でうごかしてゐました。
 「よごせ慶助わあい。」キッコは一生けん命のびあがって慶助の手をおろさうとしましたが慶助はそれをはなして一つうしろの机ににげてしまひました。そして「いがキッコこの木ぺん耳さ入るぢゃい。」と云ひながらほんたうにキッコの鉛筆を耳に入れてしまったやうでした。キッコは泣いて追ひかけましたけれども慶助はもうひらっと廊下へ出てそれからどこかへかくれてしまひました。キッコはすっかり気持をわるくしてだまって窓へ行って顔を出して雨だれを見てゐました。そのうち授業のかねがなって慶助は教室に帰って来遠くからキッコをちらっとみましたが、又どこかであばれて来たと見えて鉛筆のことなどは忘れてしまったといふ風に顔をまっかにしてふうふう息をついてゐました。
 「わあい、慶助、木ぺん返せぢゃ。」木ぺんは叫びました。
 「知らないぢゃ、うなの机さ投げてたぢゃ。」慶助は云ひました。キッコはかゞんで机のまはりをさがしましたがありませんでした。そのうちに先生が入って来ました。
 「三郎、この時間うな木ぺん使ってがら、おれさ貸せな。」キッコがとなりの三郎に云ひました。
 「うん、」三郎が机の蓋をあけてあけて本や練習帖を出しながら上のそらで答へました。

 キッコの〈木ぺん〉を見せろと言って来たのは〈巡査〉の慶助である。そして慶助は木ぺんの〈鉛筆〉を奪ってしまう。テキスト表層を読んだだけでは別になんてことはない。小学生の教室にありがちな悪ふざけの一種に過ぎない。しかしこの場面を象徴的なレベルで読んでいくと、とんでもない意味が隠されていたことになる。もう一度、キッコの持っていた〈木ぺん〉に注目することにしよう。この〈木ぺん〉は〈ペニス〉の隠喩でもある。キッコは一番前の席に座って下を向き、唇を噛み、にかにかしながら〈ペニス〉を弄んでいたことになる。キッコが女の子であれば、彼女自身の〈ペニス〉ではないということになるが、もし男の子であれば当然自分のものということになる。キッコは両性具有的な存在とも解釈できるが、ここではキッコの性別にはこだわらず、あくまでも〈木ぺん=ペニス〉の文脈で考えていくことにする。

 〈ペニス〉を弄ぶことは、言わば自慰行為であり、人目に晒されていいことではない。キッコが夢中になって自慰行為に耽ることはタブーであり、それは発見されれば厳しく罰せられることになる。キッコの〈木ぺん=ペニス〉を奪った慶助が〈巡査〉であったことは、従って偶然とは言えない。キッコはにかにか笑いながら自慰行為に耽りながら、その行為を〈横8の字〉を書く行為に装って正当化を図っていた。もし発見されても、いやおれはただ〈横8の字〉を書いていただけだという弁明ができる。それは〈めがね〉であり、〈めがねパン〉であり、〈くさりのめがね〉であり、〈洋傘の柄〉ではあって、決して疚しいことをしていたのではないというわけである。

 〈巡査〉の慶助はキッコから〈木ぺん=ペニス〉を取り上げると、それを「いかにもをかしさうに顔をまっかにして笑って自分の眼の前でうごかして」みたりする。この慶助のふざけた行為は、キッコの〈自慰行為〉を模倣することによってクラス全員にその罪を知らしめ、糾弾する意味を担っている。キッコの手が「赤くふくれて」いたのは、キッコの右手のせなかに〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついていたのは、単に〈霜やけ〉のせいではなかったのである。キッコは一人、自分の〈木ぺん=ペニス〉を「一生けん命に
ぎってにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いていた」・・まさにそのような方法で自慰行為に耽っていたのである。〈木ぺん=ペニス〉を横8の字風に動かしこすりながら自慰行為をすれば、やがては〈木ぺん=ペニス〉が口にしていた、あるいは呪文のように唱えていた(めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、      )のなかの    は〈スペルマ〉(精子)ということになる。

 さらに慶助がキッコの〈木ぺん=ペニス〉を自分の耳に入れてふざけていることにも注目しよう。〈耳〉は〈女性器〉の隠喩である。まさに慶助はここでもキッコの〈木ぺん=鉛筆〉を〈ペニス〉の代用としてふざけているのである。

 慶助はキッコに木ぺんを返さない。慶助はその木ぺんをどうしてしまったのか。語り手は何も説明しない。ただ、明確なのは、もはやキッコには自分の〈みじかい木ぺん〉はなくなってしまったという、その事実だけである。、それではこの事実、キッコが〈巡査〉に〈木ぺん=ペニス〉を奪われてしまったという〈事実〉をどのように解釈したらいいだろうか。この時点で考えられるのは、キッコは自慰行為の〈罰〉として去勢させられてしまったということである。

 さて、今の所、〈横8の字〉は〈めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉〈洋傘の柄〉などの他に〈無限記号∞〉〈スペルマ〉などの隠喩となっていると考えられるが、実は他にも重要な意味が隠されている。その点に関しては後に照明を当てることにして、とりあえず第二幕目を見ることにしよう。

  課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

  キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。
 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(2)

 「キッコ、汝の木ぺん見せろ。」にはかに巡査の慶助が来てキッコの鉛筆をとってしまひました。
 「見なくてもい、よごせ。」キッコは立ちあがりましたけれども慶助がせいの高井やつでそれに牛若丸のやうにうしろの机の上にはねあがってしまひましたからキッコは手がとゞきませんでした。
 「ほ、この木ぺん、この木ぺん。」慶助はいかにもをかしさうに顔をまっかにして自分の眼の前でうごかしてゐました。
 「よごせ慶助わあい。」キッコは一生けん命のびあがって慶助の手をおろさうとしましたが慶助はそれをはなして一つうしろの机ににげてしまひました。そして「いがキッコこの木ぺん耳さ入るぢゃい。」と云ひながらほんたうにキッコの鉛筆を耳に入れてしまったやうでした。キッコは泣いて追ひかけましたけれども慶助はもうひらっと廊下へ出てそれからどこかへかくれてしまひました。キッコはすっかり気持をわるくしてだまって窓へ行って顔を出して雨だれを見てゐました。そのうち授業のかねがなって慶助は教室に帰って来遠くからキッコをちらっとみましたが、又どこかであばれて来たと見えて鉛筆のことなどは忘れてしまったといふ風に顔をまっかにしてふうふう息をついてゐました。
 「わあい、慶助、木ぺん返せぢゃ。」木ぺんは叫びました。
 「知らないぢゃ、うなの机さ投げてたぢゃ。」慶助は云ひました。キッコはかゞんで机のまはりをさがしましたがありませんでした。そのうちに先生が入って来ました。
 「三郎、この時間うな木ぺん使ってがら、おれさ貸せな。」キッコがとなりの三郎に云ひました。
 「うん、」三郎が机の蓋をあけてあけて本や練習帖を出しながら上のそらで答へました。

 キッコの〈木ぺん〉を見せろと言って来たのは〈巡査〉の慶助である。そして慶助は木ぺんの〈鉛筆〉を奪ってしまう。テキスト表層を読んだだけでは別になんてことはない。小学生の教室にありがちな悪ふざけの一種に過ぎない。しかしこの場面を象徴的なレベルで読んでいくと、とんでもない意味が隠されていたことになる。もう一度、キッコの持っていた〈木ぺん〉に注目することにしよう。この〈木ぺん〉は〈ペニス〉の隠喩でもある。キッコは一番前の席に座って下を向き、唇を噛み、にかにかしながら〈ペニス〉を弄んでいたことになる。キッコが女の子であれば、彼女自身の〈ペニス〉ではないということになるが、もし男の子であれば当然自分のものということになる。キッコは両性具有的な存在とも解釈できるが、ここではキッコの性別にはこだわらず、あくまでも〈木ぺん=ペニス〉の文脈で考えていくことにする。

 〈ペニス〉を弄ぶことは、言わば自慰行為であり、人目に晒されていいことではない。キッコが夢中になって自慰行為に耽ることはタブーであり、それは発見されれば厳しく罰せられることになる。キッコの〈木ぺん=ペニス〉を奪った慶助が〈巡査〉であったことは、従って偶然とは言えない。キッコはにかにか笑いながら自慰行為に耽りながら、その行為を〈横8の字〉を書く行為に装って正当化を図っていた。もし発見されても、いやおれはただ〈横8の字〉を書いていただけだという弁明ができる。それは〈めがね〉であり、〈めがねパン〉であり、〈くさりのめがね〉であり、〈洋傘の柄〉ではあって、決して疚しいことをしていたのではないというわけである。

 〈巡査〉の慶助はキッコから〈木ぺん=ペニス〉を取り上げると、それを「いかにもをかしさうに顔をまっかにして笑って自分の眼の前でうごかして」みたりする。この慶助のふざけた行為は、キッコの〈自慰行為〉を模倣することによってクラス全員にその罪を知らしめ、糾弾する意味を担っている。キッコの手が「赤くふくれて」いたのは、キッコの右手のせなかに〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついていたのは、単に〈霜やけ〉のせいではなかったのである。キッコは一人、自分の〈木ぺん=ペニス〉を「一生けん命に
ぎってにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いていた」・・まさにそのような方法で自慰行為に耽っていたのである。〈木ぺん=ペニス〉を横8の字風に動かしこすりながら自慰行為をすれば、やがては〈木ぺん=ペニス〉が口にしていた、あるいは呪文のように唱えていた(めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、      )のなかの    は〈スペルマ〉(精子)ということになる。

 さらに慶助がキッコの〈木ぺん=ペニス〉を自分の耳に入れてふざけていることにも注目しよう。〈耳〉は〈女性器〉の隠喩である。まさに慶助はここでもキッコの〈木ぺん=鉛筆〉を〈ペニス〉の代用としてふざけているのである。

 慶助はキッコに木ぺんを返さない。慶助はその木ぺんをどうしてしまったのか。語り手は何も説明しない。ただ、明確なのは、もはやキッコには自分の〈みじかい木ぺん〉はなくなってしまったという、その事実だけである。、それではこの事実、キッコが〈巡査〉に〈木ぺん=ペニス〉を奪われてしまったという〈事実〉をどのように解釈したらいいだろうか。この時点で考えられるのは、キッコは自慰行為の〈罰〉として去勢させられてしまったということである。

 さて、今の所、〈横8の字〉は〈めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉〈洋傘の柄〉などの他に〈無限記号∞〉〈スペルマ〉などの隠喩となっていると考えられるが、実は他にも重要な意味が隠されている。その点に関しては後に照明を当てることにして、とりあえず第二幕目を見ることにしよう。

  課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

  キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。
 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

2004年5月 3日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(3)

課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

 

 キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(3)

課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

 

 キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(3)

課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

 

 キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(3)

課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。

 

 キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。

 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。

 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。

 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。

 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

2004年5月 4日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(4)

キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 

キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(4)

キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 

キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(4)

キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 

キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(4)

キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。

 

キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。

 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。

 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。

 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。

 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

2004年5月 5日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(5)

問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 

もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(5)

問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 

もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(5)

問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 

もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(5)

問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。

 

もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。

 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。

 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。

 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。

 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。


 三幕目を見ることにしよう。

  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。

  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

2004年5月 6日

『チェーホフを読め』 あとがき

本書は昨年九月から書きはじめ本年一月に書きおえた。今までチェーホフについて書いたことはない。ただし、いずれチェーホフについて書かなければならないだろうという予感はあった。今から十年以上も前のことだが、ぐうぜん映画『小犬をつれた貴婦人』を観て、心をうたれた。それ以来、この映画のビデオを何回か観直すことがあったが、そのたびに静かに心が揺さぶられた。そんなこともあってチェーホフ論を書くときはこの映画の批評からはじめようと思っていた。

『小犬をつれた貴婦人』『可愛い女』『六号室』『黒衣の僧』と書きすすめ、最後に『退屈な話』をとりあげた。本論で詳しく批評したのでここでは簡単に触れるが、『退屈な話』の老教授ニコライ・ステパーノヴィチは、大学で講義する者にとっては身近な存在に思えた。国も時代も違うのに、大学の教師が学生たちに思うことはほとんど何も変わっていないことに驚いた。チェーホフを知らない者に、この小説は現代小説だと言っても分からないのではないかと思ったほどである。しかし、そんなことよりわたしの心をとらえたのは、ニコライ・ステパーノヴィチの抱えている虚無、退屈、倦怠である。これらは一人ニコライ・ステパーノヴィチのものではない。


わたしはドストエフスキーを四十年近くも読み続けているが、それで何が分かったのかと言えば、結局「わからない」と答えるほかはないのだ。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャに「わたしはどうしたらいいのです?」と訊かれて「わからないんだよ!」とつぶやき、『ともしび』の語り手は『この世のことは何一つわかりっこないんだ!』と思う。

チェーホフは確かにドストエフスキーの後に作家活動を続けた小説家である。チェーホフの小説世界は、ドストエフスキーのそれとはだいぶ異なっているように見えるが、詳細に検討してみるとあんがいチェーホフはドストエフスキーを熟読していたのではないかと思えてくる。『退屈な話』論で指摘したように、ニコライ・ステパーノヴィチは『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーと、彼の教え子であったニコライ・スタヴローギンの名前からとったのではないかと思えるほどである。ドストエフスキーの人物たちが抱える虚無は熱く激しい。が、チェーホフの抱える虚無は熟成している。言わば大人の虚無であり、泣いたりわめいたりしない。アンニュイな虚無と退屈と言おうか。

『六号室』のラーギン医師は「どうでもいい」(Всё равно)が口癖であった。わけも分からずこの世に生まれ、わけも分からず死んでいかなければならない。どんなに必死になって世界の神秘を解きあかそうとしても、結局は何にもわからない。わたしは映画『小犬をつれた貴婦人』の中で、一本の空き瓶が、ヤルタの穏やかな波間に浮かんでいるそのシーンを忘れることはできない。中身の空っぽな一本の空き瓶、それが現代に生きるわたし自身の象徴的な姿にも思える。中身があるかのように語ることは、それこそニコライ・ステパーノヴィチが言うように容易なことなのだ。自分自身の内部の声にどこまでも忠実であろうとするとき、やはり「何もわからない」としかつぶやけない。

『退屈な話』の最後のシーンは、自らの〈死〉よりも壮絶な孤独がさりげなく描かれている。〈わが宝〉(カーチャに象徴される愛)を失ってまで守ろうとした誠実、その代償としての孤独、この孤独を生きたのはニコライ・ステパーノヴィチのみではない。彼を手記の主体として設定した作者チェーホフもまたこの孤独を生きた。書くほかはない孤独、・・チェーホフは書いて書いて書き続けて四十四年の壮絶な生を終えた。

チェーホフは間違いなく現代に蘇るであろう。あらゆる価値観が相対化され、どこにも絶対的な真理など見当たらない。現代人の多くは、すでにあらゆることに飽いている。空虚で退屈で、仕方なく目先のどうでもいい安手の〈快楽〉を求めて生の時間を潰しているにすぎない。「どうでもいい」という気分が蔓延している。この虚無的な気分を否定する新しい価値観などすでに求めることさえしない。「どうでもいい」は人生をすねたニヒリズムではない。ひとつの確固たる生の態度と言ってもいい。が、それは大きな声で主張されるようなことではない。「どうでもいい」は小さな声でひとりつぶやくか、内部の声としてひっそりとしまいこまれるのだ。ドストエフスキーやトルストイの後に作家活動を続けたチェーホフのダンディズムははてしのない虚無と退屈を抱え、美しいまでのアンニュイを漂わせている。

チェーホフの作品は多い。本書はその中からわずか五篇の小説をとりあげたに過ぎない。チェーホフの全作品を扱おうとすれば、途方もない時間を要することになろう。わたしは今回、特に興味を抱いた小説に限定して批評を展開したが、これらの作品批評によってチェーホフの現代的な特質性は充分に浮上したのではないかと自負している。チェーホフは今が旬である。「チェーホフを読め!」は命令ではない。現代人に下された天からの啓示である。

最後に、本書の企画をたてられ、わたしにチェーホフ論を書く一つのきっかけを与えてくださった鳥影社の窪田尚氏に厚くお礼申し上げたい。

二〇〇四年一月十三日

『チェーホフを読め』 あとがき

本書は昨年九月から書きはじめ本年一月に書きおえた。今までチェーホフについて書いたことはない。ただし、いずれチェーホフについて書かなければならないだろうという予感はあった。今から十年以上も前のことだが、ぐうぜん映画『小犬をつれた貴婦人』を観て、心をうたれた。それ以来、この映画のビデオを何回か観直すことがあったが、そのたびに静かに心が揺さぶられた。そんなこともあってチェーホフ論を書くときはこの映画の批評からはじめようと思っていた。

『小犬をつれた貴婦人』『可愛い女』『六号室』『黒衣の僧』と書きすすめ、最後に『退屈な話』をとりあげた。本論で詳しく批評したのでここでは簡単に触れるが、『退屈な話』の老教授ニコライ・ステパーノヴィチは、大学で講義する者にとっては身近な存在に思えた。国も時代も違うのに、大学の教師が学生たちに思うことはほとんど何も変わっていないことに驚いた。チェーホフを知らない者に、この小説は現代小説だと言っても分からないのではないかと思ったほどである。しかし、そんなことよりわたしの心をとらえたのは、ニコライ・ステパーノヴィチの抱えている虚無、退屈、倦怠である。これらは一人ニコライ・ステパーノヴィチのものではない。


わたしはドストエフスキーを四十年近くも読み続けているが、それで何が分かったのかと言えば、結局「わからない」と答えるほかはないのだ。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャに「わたしはどうしたらいいのです?」と訊かれて「わからないんだよ!」とつぶやき、『ともしび』の語り手は『この世のことは何一つわかりっこないんだ!』と思う。

チェーホフは確かにドストエフスキーの後に作家活動を続けた小説家である。チェーホフの小説世界は、ドストエフスキーのそれとはだいぶ異なっているように見えるが、詳細に検討してみるとあんがいチェーホフはドストエフスキーを熟読していたのではないかと思えてくる。『退屈な話』論で指摘したように、ニコライ・ステパーノヴィチは『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーと、彼の教え子であったニコライ・スタヴローギンの名前からとったのではないかと思えるほどである。ドストエフスキーの人物たちが抱える虚無は熱く激しい。が、チェーホフの抱える虚無は熟成している。言わば大人の虚無であり、泣いたりわめいたりしない。アンニュイな虚無と退屈と言おうか。

『六号室』のラーギン医師は「どうでもいい」(Всё равно)が口癖であった。わけも分からずこの世に生まれ、わけも分からず死んでいかなければならない。どんなに必死になって世界の神秘を解きあかそうとしても、結局は何にもわからない。わたしは映画『小犬をつれた貴婦人』の中で、一本の空き瓶が、ヤルタの穏やかな波間に浮かんでいるそのシーンを忘れることはできない。中身の空っぽな一本の空き瓶、それが現代に生きるわたし自身の象徴的な姿にも思える。中身があるかのように語ることは、それこそニコライ・ステパーノヴィチが言うように容易なことなのだ。自分自身の内部の声にどこまでも忠実であろうとするとき、やはり「何もわからない」としかつぶやけない。

『退屈な話』の最後のシーンは、自らの〈死〉よりも壮絶な孤独がさりげなく描かれている。〈わが宝〉(カーチャに象徴される愛)を失ってまで守ろうとした誠実、その代償としての孤独、この孤独を生きたのはニコライ・ステパーノヴィチのみではない。彼を手記の主体として設定した作者チェーホフもまたこの孤独を生きた。書くほかはない孤独、・・チェーホフは書いて書いて書き続けて四十四年の壮絶な生を終えた。

チェーホフは間違いなく現代に蘇るであろう。あらゆる価値観が相対化され、どこにも絶対的な真理など見当たらない。現代人の多くは、すでにあらゆることに飽いている。空虚で退屈で、仕方なく目先のどうでもいい安手の〈快楽〉を求めて生の時間を潰しているにすぎない。「どうでもいい」という気分が蔓延している。この虚無的な気分を否定する新しい価値観などすでに求めることさえしない。「どうでもいい」は人生をすねたニヒリズムではない。ひとつの確固たる生の態度と言ってもいい。が、それは大きな声で主張されるようなことではない。「どうでもいい」は小さな声でひとりつぶやくか、内部の声としてひっそりとしまいこまれるのだ。ドストエフスキーやトルストイの後に作家活動を続けたチェーホフのダンディズムははてしのない虚無と退屈を抱え、美しいまでのアンニュイを漂わせている。

チェーホフの作品は多い。本書はその中からわずか五篇の小説をとりあげたに過ぎない。チェーホフの全作品を扱おうとすれば、途方もない時間を要することになろう。わたしは今回、特に興味を抱いた小説に限定して批評を展開したが、これらの作品批評によってチェーホフの現代的な特質性は充分に浮上したのではないかと自負している。チェーホフは今が旬である。「チェーホフを読め!」は命令ではない。現代人に下された天からの啓示である。

最後に、本書の企画をたてられ、わたしにチェーホフ論を書く一つのきっかけを与えてくださった鳥影社の窪田尚氏に厚くお礼申し上げたい。

二〇〇四年一月十三日

『チェーホフを読め』 あとがき

本書は昨年九月から書きはじめ本年一月に書きおえた。今までチェーホフについて書いたことはない。ただし、いずれチェーホフについて書かなければならないだろうという予感はあった。今から十年以上も前のことだが、ぐうぜん映画『小犬をつれた貴婦人』を観て、心をうたれた。それ以来、この映画のビデオを何回か観直すことがあったが、そのたびに静かに心が揺さぶられた。そんなこともあってチェーホフ論を書くときはこの映画の批評からはじめようと思っていた。

『小犬をつれた貴婦人』『可愛い女』『六号室』『黒衣の僧』と書きすすめ、最後に『退屈な話』をとりあげた。本論で詳しく批評したのでここでは簡単に触れるが、『退屈な話』の老教授ニコライ・ステパーノヴィチは、大学で講義する者にとっては身近な存在に思えた。国も時代も違うのに、大学の教師が学生たちに思うことはほとんど何も変わっていないことに驚いた。チェーホフを知らない者に、この小説は現代小説だと言っても分からないのではないかと思ったほどである。しかし、そんなことよりわたしの心をとらえたのは、ニコライ・ステパーノヴィチの抱えている虚無、退屈、倦怠である。これらは一人ニコライ・ステパーノヴィチのものではない。


わたしはドストエフスキーを四十年近くも読み続けているが、それで何が分かったのかと言えば、結局「わからない」と答えるほかはないのだ。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャに「わたしはどうしたらいいのです?」と訊かれて「わからないんだよ!」とつぶやき、『ともしび』の語り手は『この世のことは何一つわかりっこないんだ!』と思う。

チェーホフは確かにドストエフスキーの後に作家活動を続けた小説家である。チェーホフの小説世界は、ドストエフスキーのそれとはだいぶ異なっているように見えるが、詳細に検討してみるとあんがいチェーホフはドストエフスキーを熟読していたのではないかと思えてくる。『退屈な話』論で指摘したように、ニコライ・ステパーノヴィチは『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーと、彼の教え子であったニコライ・スタヴローギンの名前からとったのではないかと思えるほどである。ドストエフスキーの人物たちが抱える虚無は熱く激しい。が、チェーホフの抱える虚無は熟成している。言わば大人の虚無であり、泣いたりわめいたりしない。アンニュイな虚無と退屈と言おうか。

『六号室』のラーギン医師は「どうでもいい」(Всё равно)が口癖であった。わけも分からずこの世に生まれ、わけも分からず死んでいかなければならない。どんなに必死になって世界の神秘を解きあかそうとしても、結局は何にもわからない。わたしは映画『小犬をつれた貴婦人』の中で、一本の空き瓶が、ヤルタの穏やかな波間に浮かんでいるそのシーンを忘れることはできない。中身の空っぽな一本の空き瓶、それが現代に生きるわたし自身の象徴的な姿にも思える。中身があるかのように語ることは、それこそニコライ・ステパーノヴィチが言うように容易なことなのだ。自分自身の内部の声にどこまでも忠実であろうとするとき、やはり「何もわからない」としかつぶやけない。

『退屈な話』の最後のシーンは、自らの〈死〉よりも壮絶な孤独がさりげなく描かれている。〈わが宝〉(カーチャに象徴される愛)を失ってまで守ろうとした誠実、その代償としての孤独、この孤独を生きたのはニコライ・ステパーノヴィチのみではない。彼を手記の主体として設定した作者チェーホフもまたこの孤独を生きた。書くほかはない孤独、・・チェーホフは書いて書いて書き続けて四十四年の壮絶な生を終えた。

チェーホフは間違いなく現代に蘇るであろう。あらゆる価値観が相対化され、どこにも絶対的な真理など見当たらない。現代人の多くは、すでにあらゆることに飽いている。空虚で退屈で、仕方なく目先のどうでもいい安手の〈快楽〉を求めて生の時間を潰しているにすぎない。「どうでもいい」という気分が蔓延している。この虚無的な気分を否定する新しい価値観などすでに求めることさえしない。「どうでもいい」は人生をすねたニヒリズムではない。ひとつの確固たる生の態度と言ってもいい。が、それは大きな声で主張されるようなことではない。「どうでもいい」は小さな声でひとりつぶやくか、内部の声としてひっそりとしまいこまれるのだ。ドストエフスキーやトルストイの後に作家活動を続けたチェーホフのダンディズムははてしのない虚無と退屈を抱え、美しいまでのアンニュイを漂わせている。

チェーホフの作品は多い。本書はその中からわずか五篇の小説をとりあげたに過ぎない。チェーホフの全作品を扱おうとすれば、途方もない時間を要することになろう。わたしは今回、特に興味を抱いた小説に限定して批評を展開したが、これらの作品批評によってチェーホフの現代的な特質性は充分に浮上したのではないかと自負している。チェーホフは今が旬である。「チェーホフを読め!」は命令ではない。現代人に下された天からの啓示である。

最後に、本書の企画をたてられ、わたしにチェーホフ論を書く一つのきっかけを与えてくださった鳥影社の窪田尚氏に厚くお礼申し上げたい。

二〇〇四年一月十三日

『チェーホフを読め』 あとがき

本書は昨年九月から書きはじめ本年一月に書きおえた。今までチェーホフについて書いたことはない。ただし、いずれチェーホフについて書かなければならないだろうという予感はあった。今から十年以上も前のことだが、ぐうぜん映画『小犬をつれた貴婦人』を観て、心をうたれた。それ以来、この映画のビデオを何回か観直すことがあったが、そのたびに静かに心が揺さぶられた。そんなこともあってチェーホフ論を書くときはこの映画の批評からはじめようと思っていた。

『小犬をつれた貴婦人』『可愛い女』『六号室』『黒衣の僧』と書きすすめ、最後に『退屈な話』をとりあげた。本論で詳しく批評したのでここでは簡単に触れるが、『退屈な話』の老教授ニコライ・ステパーノヴィチは、大学で講義する者にとっては身近な存在に思えた。国も時代も違うのに、大学の教師が学生たちに思うことはほとんど何も変わっていないことに驚いた。チェーホフを知らない者に、この小説は現代小説だと言っても分からないのではないかと思ったほどである。しかし、そんなことよりわたしの心をとらえたのは、ニコライ・ステパーノヴィチの抱えている虚無、退屈、倦怠である。これらは一人ニコライ・ステパーノヴィチのものではない。


わたしはドストエフスキーを四十年近くも読み続けているが、それで何が分かったのかと言えば、結局「わからない」と答えるほかはないのだ。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャに「わたしはどうしたらいいのです?」と訊かれて「わからないんだよ!」とつぶやき、『ともしび』の語り手は『この世のことは何一つわかりっこないんだ!』と思う。

チェーホフは確かにドストエフスキーの後に作家活動を続けた小説家である。チェーホフの小説世界は、ドストエフスキーのそれとはだいぶ異なっているように見えるが、詳細に検討してみるとあんがいチェーホフはドストエフスキーを熟読していたのではないかと思えてくる。『退屈な話』論で指摘したように、ニコライ・ステパーノヴィチは『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーと、彼の教え子であったニコライ・スタヴローギンの名前からとったのではないかと思えるほどである。ドストエフスキーの人物たちが抱える虚無は熱く激しい。が、チェーホフの抱える虚無は熟成している。言わば大人の虚無であり、泣いたりわめいたりしない。アンニュイな虚無と退屈と言おうか。

『六号室』のラーギン医師は「どうでもいい」(Всё равно)が口癖であった。わけも分からずこの世に生まれ、わけも分からず死んでいかなければならない。どんなに必死になって世界の神秘を解きあかそうとしても、結局は何にもわからない。わたしは映画『小犬をつれた貴婦人』の中で、一本の空き瓶が、ヤルタの穏やかな波間に浮かんでいるそのシーンを忘れることはできない。中身の空っぽな一本の空き瓶、それが現代に生きるわたし自身の象徴的な姿にも思える。中身があるかのように語ることは、それこそニコライ・ステパーノヴィチが言うように容易なことなのだ。自分自身の内部の声にどこまでも忠実であろうとするとき、やはり「何もわからない」としかつぶやけない。

『退屈な話』の最後のシーンは、自らの〈死〉よりも壮絶な孤独がさりげなく描かれている。〈わが宝〉(カーチャに象徴される愛)を失ってまで守ろうとした誠実、その代償としての孤独、この孤独を生きたのはニコライ・ステパーノヴィチのみではない。彼を手記の主体として設定した作者チェーホフもまたこの孤独を生きた。書くほかはない孤独、・・チェーホフは書いて書いて書き続けて四十四年の壮絶な生を終えた。

チェーホフは間違いなく現代に蘇るであろう。あらゆる価値観が相対化され、どこにも絶対的な真理など見当たらない。現代人の多くは、すでにあらゆることに飽いている。空虚で退屈で、仕方なく目先のどうでもいい安手の〈快楽〉を求めて生の時間を潰しているにすぎない。「どうでもいい」という気分が蔓延している。この虚無的な気分を否定する新しい価値観などすでに求めることさえしない。「どうでもいい」は人生をすねたニヒリズムではない。ひとつの確固たる生の態度と言ってもいい。が、それは大きな声で主張されるようなことではない。「どうでもいい」は小さな声でひとりつぶやくか、内部の声としてひっそりとしまいこまれるのだ。ドストエフスキーやトルストイの後に作家活動を続けたチェーホフのダンディズムははてしのない虚無と退屈を抱え、美しいまでのアンニュイを漂わせている。

チェーホフの作品は多い。本書はその中からわずか五篇の小説をとりあげたに過ぎない。チェーホフの全作品を扱おうとすれば、途方もない時間を要することになろう。わたしは今回、特に興味を抱いた小説に限定して批評を展開したが、これらの作品批評によってチェーホフの現代的な特質性は充分に浮上したのではないかと自負している。チェーホフは今が旬である。「チェーホフを読め!」は命令ではない。現代人に下された天からの啓示である。

最後に、本書の企画をたてられ、わたしにチェーホフ論を書く一つのきっかけを与えてくださった鳥影社の窪田尚氏に厚くお礼申し上げたい。

二〇〇四年一月十三日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(6)

三幕目を見ることにしよう。

次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。
 

 そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(6)

三幕目を見ることにしよう。

次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。
 

 そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(6)

三幕目を見ることにしよう。

次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。
 

 そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(6)

三幕目を見ることにしよう。

次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。
 

 そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。

  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。

 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。

 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

2004年5月 7日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(7)

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(7)

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(7)

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(7)

『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。

 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)

  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。

  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。

 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。

 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。

  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

2004年5月 8日

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(8)

そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]


 キッコは鳥の王から宝珠を授かったホモイのように、有頂天になり、傲慢になる。ホモイの宝珠は最後に砕けて、その粉がホモイを失明させてしまう。はたしてキッコの場合はどうであったろう。キッコの望みをかなえ続けてくれた〈変な鉛筆〉はある日とつぜんなくなってしまう。この〈鉛筆〉にばかり頼って、自分では何一つ努力してこなかったキッコは、先生が出した算術を解くことができない。しかし、はたしてこの先生の出した算術を解いた者があっただろうか。わたしの知るところ、「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」の問いに正確に答えた読者はただ一人を存在しなかった。

 〈一ダース〉は〈12〉本、〈二ダース半〉は〈30〉本である。一ダース二十銭ということであるから、〈6〉本で十銭である。従って二ダース半の〈30〉本では〈50〉銭ということになる。この答え〈50〉銭という答を出すことは小学生でもできる。問題はその〈50〉銭が潜んでいる意味である。

勘のいい方はもうお分かりだろう。先にわたしはケンジ童話に出てくる数字を数秘術的減算すると、キリストが十字架に掛かった時の突出した時を意味する〈三〉〈六〉〈九〉になることを指摘しておいた。さて、先に取り上げた掛算(48×62)においては、96が6、288 が9、2976が6ということで、キリストが十字架に掛かった時の〈三〉時(今の午前九時)が欠落していた。ところが、このテキストの最後で先生が出した算術の問題自体の内に、この欠落していた〈3〉が潜んでいた。〈一ダース〉は〈12〉本で、これを数秘術的減算すれば1+2=3となる。〈二ダース半〉は〈30〉本で、これも数秘術的減算すると3になる。これで、このきわめてみじかい童話において〈三〉〈六〉〈九〉がすべて揃ったことになる。そして、答えが〈50〉銭である。〈50〉を数秘術的減算すれば〈5〉となる。〈5〉はキリストを意味するとはすでに先に紹介してある。

 もう誰も疑うことはできないだろう。つまり、先生が出した〈算術〉の答は〈キリスト〉であったということである。そして〈キッコ〉は〈キリスト〉になりそこねた子供であったということである。

 〈キッコ〉は〈キリスト〉になれる可能性を持っていた。その可能性にかけたのが〈樺の林〉に現出した〈おぢいさん〉であった。否、〈おぢいさん〉はやはり、キッコを試みた悪魔的な存在である。〈変な鉛筆〉を持った物書きはくれぐれも注意しなければいけないという警告でもある。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(8)

そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]


 キッコは鳥の王から宝珠を授かったホモイのように、有頂天になり、傲慢になる。ホモイの宝珠は最後に砕けて、その粉がホモイを失明させてしまう。はたしてキッコの場合はどうであったろう。キッコの望みをかなえ続けてくれた〈変な鉛筆〉はある日とつぜんなくなってしまう。この〈鉛筆〉にばかり頼って、自分では何一つ努力してこなかったキッコは、先生が出した算術を解くことができない。しかし、はたしてこの先生の出した算術を解いた者があっただろうか。わたしの知るところ、「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」の問いに正確に答えた読者はただ一人を存在しなかった。

 〈一ダース〉は〈12〉本、〈二ダース半〉は〈30〉本である。一ダース二十銭ということであるから、〈6〉本で十銭である。従って二ダース半の〈30〉本では〈50〉銭ということになる。この答え〈50〉銭という答を出すことは小学生でもできる。問題はその〈50〉銭が潜んでいる意味である。

勘のいい方はもうお分かりだろう。先にわたしはケンジ童話に出てくる数字を数秘術的減算すると、キリストが十字架に掛かった時の突出した時を意味する〈三〉〈六〉〈九〉になることを指摘しておいた。さて、先に取り上げた掛算(48×62)においては、96が6、288 が9、2976が6ということで、キリストが十字架に掛かった時の〈三〉時(今の午前九時)が欠落していた。ところが、このテキストの最後で先生が出した算術の問題自体の内に、この欠落していた〈3〉が潜んでいた。〈一ダース〉は〈12〉本で、これを数秘術的減算すれば1+2=3となる。〈二ダース半〉は〈30〉本で、これも数秘術的減算すると3になる。これで、このきわめてみじかい童話において〈三〉〈六〉〈九〉がすべて揃ったことになる。そして、答えが〈50〉銭である。〈50〉を数秘術的減算すれば〈5〉となる。〈5〉はキリストを意味するとはすでに先に紹介してある。

 もう誰も疑うことはできないだろう。つまり、先生が出した〈算術〉の答は〈キリスト〉であったということである。そして〈キッコ〉は〈キリスト〉になりそこねた子供であったということである。

 〈キッコ〉は〈キリスト〉になれる可能性を持っていた。その可能性にかけたのが〈樺の林〉に現出した〈おぢいさん〉であった。否、〈おぢいさん〉はやはり、キッコを試みた悪魔的な存在である。〈変な鉛筆〉を持った物書きはくれぐれも注意しなければいけないという警告でもある。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(8)

そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]


 キッコは鳥の王から宝珠を授かったホモイのように、有頂天になり、傲慢になる。ホモイの宝珠は最後に砕けて、その粉がホモイを失明させてしまう。はたしてキッコの場合はどうであったろう。キッコの望みをかなえ続けてくれた〈変な鉛筆〉はある日とつぜんなくなってしまう。この〈鉛筆〉にばかり頼って、自分では何一つ努力してこなかったキッコは、先生が出した算術を解くことができない。しかし、はたしてこの先生の出した算術を解いた者があっただろうか。わたしの知るところ、「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」の問いに正確に答えた読者はただ一人を存在しなかった。

 〈一ダース〉は〈12〉本、〈二ダース半〉は〈30〉本である。一ダース二十銭ということであるから、〈6〉本で十銭である。従って二ダース半の〈30〉本では〈50〉銭ということになる。この答え〈50〉銭という答を出すことは小学生でもできる。問題はその〈50〉銭が潜んでいる意味である。

勘のいい方はもうお分かりだろう。先にわたしはケンジ童話に出てくる数字を数秘術的減算すると、キリストが十字架に掛かった時の突出した時を意味する〈三〉〈六〉〈九〉になることを指摘しておいた。さて、先に取り上げた掛算(48×62)においては、96が6、288 が9、2976が6ということで、キリストが十字架に掛かった時の〈三〉時(今の午前九時)が欠落していた。ところが、このテキストの最後で先生が出した算術の問題自体の内に、この欠落していた〈3〉が潜んでいた。〈一ダース〉は〈12〉本で、これを数秘術的減算すれば1+2=3となる。〈二ダース半〉は〈30〉本で、これも数秘術的減算すると3になる。これで、このきわめてみじかい童話において〈三〉〈六〉〈九〉がすべて揃ったことになる。そして、答えが〈50〉銭である。〈50〉を数秘術的減算すれば〈5〉となる。〈5〉はキリストを意味するとはすでに先に紹介してある。

 もう誰も疑うことはできないだろう。つまり、先生が出した〈算術〉の答は〈キリスト〉であったということである。そして〈キッコ〉は〈キリスト〉になりそこねた子供であったということである。

 〈キッコ〉は〈キリスト〉になれる可能性を持っていた。その可能性にかけたのが〈樺の林〉に現出した〈おぢいさん〉であった。否、〈おぢいさん〉はやはり、キッコを試みた悪魔的な存在である。〈変な鉛筆〉を持った物書きはくれぐれも注意しなければいけないという警告でもある。

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(8)

そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]


 キッコは鳥の王から宝珠を授かったホモイのように、有頂天になり、傲慢になる。ホモイの宝珠は最後に砕けて、その粉がホモイを失明させてしまう。はたしてキッコの場合はどうであったろう。キッコの望みをかなえ続けてくれた〈変な鉛筆〉はある日とつぜんなくなってしまう。この〈鉛筆〉にばかり頼って、自分では何一つ努力してこなかったキッコは、先生が出した算術を解くことができない。しかし、はたしてこの先生の出した算術を解いた者があっただろうか。わたしの知るところ、「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」の問いに正確に答えた読者はただ一人を存在しなかった。

 〈一ダース〉は〈12〉本、〈二ダース半〉は〈30〉本である。一ダース二十銭ということであるから、〈6〉本で十銭である。従って二ダース半の〈30〉本では〈50〉銭ということになる。この答え〈50〉銭という答を出すことは小学生でもできる。問題はその〈50〉銭が潜んでいる意味である。

勘のいい方はもうお分かりだろう。先にわたしはケンジ童話に出てくる数字を数秘術的減算すると、キリストが十字架に掛かった時の突出した時を意味する〈三〉〈六〉〈九〉になることを指摘しておいた。さて、先に取り上げた掛算(48×62)においては、96が6、288 が9、2976が6ということで、キリストが十字架に掛かった時の〈三〉時(今の午前九時)が欠落していた。ところが、このテキストの最後で先生が出した算術の問題自体の内に、この欠落していた〈3〉が潜んでいた。〈一ダース〉は〈12〉本で、これを数秘術的減算すれば1+2=3となる。〈二ダース半〉は〈30〉本で、これも数秘術的減算すると3になる。これで、このきわめてみじかい童話において〈三〉〈六〉〈九〉がすべて揃ったことになる。そして、答えが〈50〉銭である。〈50〉を数秘術的減算すれば〈5〉となる。〈5〉はキリストを意味するとはすでに先に紹介してある。

 もう誰も疑うことはできないだろう。つまり、先生が出した〈算術〉の答は〈キリスト〉であったということである。そして〈キッコ〉は〈キリスト〉になりそこねた子供であったということである。

 〈キッコ〉は〈キリスト〉になれる可能性を持っていた。その可能性にかけたのが〈樺の林〉に現出した〈おぢいさん〉であった。否、〈おぢいさん〉はやはり、キッコを試みた悪魔的な存在である。〈変な鉛筆〉を持った物書きはくれぐれも注意しなければいけないという警告でもある。

2004年5月10日

【学生の声】 5月10日「マンガ論」

5月10日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声131件中から24枚(原文まま)を以下に紹介します。

丁寧にまんがを読み解いていくことによって作者の意図を越えた色々な解釈が生まれるということはおもしろい事実であると思いました。また「蔵六の奇病」はその話自体も、先生の解釈も非常におもしろかったです。(油原陽子・文芸学科1年)

先生の解読は生徒の意見を大切にするので、このマンガのポイントがとてもわかりやすかった。自分一人で読んだままではマンガの魅力が30%くらいしか把握できなかったと思う。自分はマンガ好きだと自負していたが全然甘かったので、先生の授業を聞いてもっともっとマンガを楽しめるようにしたい。一コマ一コマ細かく解読してくれたので、マンガの作り(構成)のようなものも少しわかった。今後もよろしくお願いします。(宮原悟郎・放送学科2年)

普通に見ていた人形のシルエットやピースの空き箱の意味、というか解釈には、本当に「なるほどー」と思った。蔵六の奇病も読んでみたいと思った。(佐藤由季・文芸学科1年)

この間は航空公園での飲み会でお世話になりました。先生の話は「なるほど」とうなづける話が多く、目からウロコの連続です。例えば「チーコ」のpeaceの話。「なるほど、そういう読み方もあるのか」とテキストが広がりをもって眼前にせまる感じがしました。ところで、ドストエフスキーですが、今、「罪と罰」を読んでいます。読み終えたら感想を聞いて下さい。それではまたよろしくお願いします。(佐藤裕太・文芸学科1年)
  
今日の講義に出た日野日出志さんの「蔵六の奇病」を始めとするホラー漫画はその絵のおどろおどろしさに敬遠しがちだが、とても奥深く内容の濃いことに驚いた。今風のテーマの漫画に慣れ親しんでいるので、まるで日本昔話を見ているように感じた。(新井敦子・映画学科1年)

タイトルの1コマ目がとても重要な意味をもっていることがよくわかった。細やかな観察がそのものの価値以上をひきだすというのは芸術家にとっては脅威だと思う。(山口晋似郎・放送学科1年)

”蔵六の奇病”を自分もちゃんと読んでみたいと思った。マンガは奥が深い・・・・・・・。(藤井奈津美・文芸学科1年)

マンガの中にはたくさんの意味が考えられるということが先生の講義を受けて思いました。「蔵六の奇病」の話はとても不気味で想像したくないのに想像してしまい、顔をしかめて聞いていました。あんな不気味な話の中に親に対する気持ちがえがかれているとは思ってもいませんでした。(香月瞳子・演劇学科1年)

テキストの解体と再構築、話を聞いて初めて「なるほど」と納得します。蔵六のあの泣き顔、抱き締めたくなりました。(杉澤麻里子・文芸学科1年)

「蔵六の奇病」というマンガにそのような多々の解釈が付けられるとは思わなかった。「チーコ」にしても、はじめこのマンガは何を言いたいのだろうと思っていたが、再構築することで奥行きが生まれ、味が出てくる。マンガは一般的には子供じみて勉強にならないものと思われてるが、そんなことはない、いろいろな楽しみ方ができるのだと思った。(原彩子・文芸学科1年)

私は末っ子でどちらかと言えば甘やかされて育ったが、姉2人も私に母のおっぱいを取られ、切なかったのかなぁ・・・(阿久澤風貴子・演劇学科2年)

「蔵六の奇病」のキノコがおっぱいとか、沼が硫酸とかいう見方は、すごく深いと思いました。「チーコ」は個人的にそんなにおもしろくはなかったけど、すごく切なさを感じました。(横山辰郎・映画学科1年)

読者の想像力しだいで、作者の想定した以上のものがつくれるのですね。「蔵六の奇病」はすさまじい話ですな・・・。ここまで子供の母への執着心について描いた作品はないのではないだろうか。全てが何かの象徴だとするならば、マンガも人生観もどんどん変わっていきますね。(村瀬一路・放送学科1年)

チーコは最後は「自由」になったのだと思います。つまり、奥さんも、この後、男の元を去るのではないでしょうか、と思いました。母体回帰の話に納得してしまいました。作者の深層心理にも深く関わってくるものなんですね・・・。勉強になります。(高橋由季・文芸学科1年)

「批評は創造である」というような発言に、今まで自分の中にあった「批評の存在意義とは何か」といった疑問に対する1つの意見提示がなされ、この授業に対する見方も変わりました。そこが一番のハイライトでした、個人的に。(藤原亮・文芸学科1年)

ものすごい楽しかった。いやはっきりいって批評などは意味のないものと思っていた。が、しかし、たしかに作家を感動させ、説明をうける者を感動させる力がある!マンガはやっぱりすばらしい、僕にとってマンガは”僕”を形成する大きな割合いをしめています!(山中勝仁・演劇学科2年)

批評家が作家を感動させる批評をしなければならないというのはすこし納得した。(川岸真人・美術学科2年)

3週にわたって読んできた「チーコ」は、一番最初に読んだ時よりも、全く違った見方になりました。細かい描写を見ていくことにより、わかってくるものが多く、またそれによって、作者の伝えたいことや、暗示されているものが多いのだと思いました。自分で深く考え、見ながら読むことの楽しさを少しわかりました。(中西沙織・放送学科2年)

いつものようにマンガを読んでいたら絶対に見落とすようなことや裏の考えまで細かく説明してくださったので、とてもおもしろかったです。「蔵六」、是非読んでみたいです。(鈴木涼子・演劇学科2年)

この講義を受けるまで、マンガがこんな風に読めるとは知らなかった。また「チーコ」を読むことが出来て良かった。この講義に出なければ一生読むことはなかったと思う。あと自分も今村昌平の大ファンです。(武田英樹・映画学科1年)

「テキストは成長する」名言ですね、素敵です。その通りだと思います。人にはそれぞれの見方がありストーリーがある。よって2次元のマンガが3次元になり多面体として存在する。想像力の大切さを教わった気がしました。次回も期待しています。(坂東博明・文芸学科1年)

蔵六の奇病は是非読んでみたいと思います。蔵六の苦難は、キリストの受難に置き換えて読むことも可能なのではないでしょうか?(小山田裕哉・映画学科2年)

もっとマンガを読む時に、すみずみまで絵を見ていこうと思いました。(藤枝美絵・演劇学科2年)

マンガ一つにも色々な読み方があるのだと痛感した。今まで読んだマンガも読み返してみようと思う。(杉山泰朗・放送学科2年)

2004年5月13日

清水正が読み解く日野日出志作「蔵六の奇病」

「D文学通信」1095号(2004年5月6日)と1096号(2004年5月7日)に「日野日出志の実存ホラー漫画を読む」を連載する。

4月27日から5月3日までの一週間をかけて16O枚の「蔵六の奇病」論を完成。二回に渡って連載した。次に最初の四章と「さいごに」の章を紹介する。

 なお、今後とも日野日出志の代表作を批評していきたいと考えている。

清水正が読み解く日野日出志作「蔵六の奇病」

「D文学通信」1095号(2004年5月6日)と1096号(2004年5月7日)に「日野日出志の実存ホラー漫画を読む」を連載する。

4月27日から5月3日までの一週間をかけて16O枚の「蔵六の奇病」論を完成。二回に渡って連載した。次に最初の四章と「さいごに」の章を紹介する。

 なお、今後とも日野日出志の代表作を批評していきたいと考えている。

清水正が読み解く日野日出志作「蔵六の奇病」

「D文学通信」1095号(2004年5月6日)と1096号(2004年5月7日)に「日野日出志の実存ホラー漫画を読む」を連載する。

4月27日から5月3日までの一週間をかけて16O枚の「蔵六の奇病」論を完成。二回に渡って連載した。次に最初の四章と「さいごに」の章を紹介する。

 なお、今後とも日野日出志の代表作を批評していきたいと考えている。

清水正が読み解く日野日出志作「蔵六の奇病」

「D文学通信」1095号(2004年5月6日)と1096号(2004年5月7日)に「日野日出志の実存ホラー漫画を読む」を連載する。

4月27日から5月3日までの一週間をかけて16O枚の「蔵六の奇病」論を完成。二回に渡って連載した。次に最初の四章と「さいごに」の章を紹介する。

 なお、今後とも日野日出志の代表作を批評していきたいと考えている。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(1)...【はじめに】

はじめに

――日野日出志の本を購入――

日野日出志氏の漫画をまとめて読んだことがなかった。何作かは読んでいたが、気味の悪いグロテスクな印象を持つ程度で、きちんと批評してみようとは思わなかった。ところが二〇〇四年四月二十六日、日野日出志が日本大学芸術学部文芸学科のオムニバス講座(文芸特別講座・)で授業をすることになったので、わたしもこの講座のチーフ講師・志賀公江氏と一緒に聴講することにした。

 

そこで当日までに日野日出志氏の漫画を何作か読んでおこうと思い、まずは我孫子駅前の書店で探したが、一冊も置いていなかった。ここの店員は漫画そのものに関してあまり知識がないようであった。そこで柏市の行きつけの古書店(漫画専門店)に出掛けて、主人に「日野日出志ありますか?」と訊くと、すぐにレジの後ろの特別な棚をさした。そこには七、八冊の日野本(初版本)が置いてあった。値段を見ると、八千とか六千円とかついている。講談社で出ている並製の本まで二千円とついている。おや、なんでこんなに高いのだろうと思っていると、主人すかさず「日野日出志の本は絶版が多いんですよ」ということだった。どうやら日野日出志氏にはマニアックな熱烈なファンがいるらしい。わたしは『蔵六の奇病』(創美社版)を千五百円で購入した。まずは一冊読んでみようという感じであった。

 それから電車に乗って池袋に行き、まずは西部のリブロ書店に寄った。漫画コーナーの女店員に「日野日出志の本、どこにありますか」と訊くと、その店員は日野氏を知らなかった。これでは話にならない。次にジュンク堂の地下一階に行き、同じ質問をすると、その女店員「講談社本は現在在庫がありませんが、秋田書店のものはあります」と言って、すぐにその棚の所に案内してくれた。わたしはそこに置いてあった五冊ばかりの本を購入して帰って来た。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(1)...【はじめに】

はじめに

――日野日出志の本を購入――

日野日出志氏の漫画をまとめて読んだことがなかった。何作かは読んでいたが、気味の悪いグロテスクな印象を持つ程度で、きちんと批評してみようとは思わなかった。ところが二〇〇四年四月二十六日、日野日出志が日本大学芸術学部文芸学科のオムニバス講座(文芸特別講座・)で授業をすることになったので、わたしもこの講座のチーフ講師・志賀公江氏と一緒に聴講することにした。

 

そこで当日までに日野日出志氏の漫画を何作か読んでおこうと思い、まずは我孫子駅前の書店で探したが、一冊も置いていなかった。ここの店員は漫画そのものに関してあまり知識がないようであった。そこで柏市の行きつけの古書店(漫画専門店)に出掛けて、主人に「日野日出志ありますか?」と訊くと、すぐにレジの後ろの特別な棚をさした。そこには七、八冊の日野本(初版本)が置いてあった。値段を見ると、八千とか六千円とかついている。講談社で出ている並製の本まで二千円とついている。おや、なんでこんなに高いのだろうと思っていると、主人すかさず「日野日出志の本は絶版が多いんですよ」ということだった。どうやら日野日出志氏にはマニアックな熱烈なファンがいるらしい。わたしは『蔵六の奇病』(創美社版)を千五百円で購入した。まずは一冊読んでみようという感じであった。

 それから電車に乗って池袋に行き、まずは西部のリブロ書店に寄った。漫画コーナーの女店員に「日野日出志の本、どこにありますか」と訊くと、その店員は日野氏を知らなかった。これでは話にならない。次にジュンク堂の地下一階に行き、同じ質問をすると、その女店員「講談社本は現在在庫がありませんが、秋田書店のものはあります」と言って、すぐにその棚の所に案内してくれた。わたしはそこに置いてあった五冊ばかりの本を購入して帰って来た。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(1)...【はじめに】

はじめに

――日野日出志の本を購入――

日野日出志氏の漫画をまとめて読んだことがなかった。何作かは読んでいたが、気味の悪いグロテスクな印象を持つ程度で、きちんと批評してみようとは思わなかった。ところが二〇〇四年四月二十六日、日野日出志が日本大学芸術学部文芸学科のオムニバス講座(文芸特別講座・)で授業をすることになったので、わたしもこの講座のチーフ講師・志賀公江氏と一緒に聴講することにした。

 

そこで当日までに日野日出志氏の漫画を何作か読んでおこうと思い、まずは我孫子駅前の書店で探したが、一冊も置いていなかった。ここの店員は漫画そのものに関してあまり知識がないようであった。そこで柏市の行きつけの古書店(漫画専門店)に出掛けて、主人に「日野日出志ありますか?」と訊くと、すぐにレジの後ろの特別な棚をさした。そこには七、八冊の日野本(初版本)が置いてあった。値段を見ると、八千とか六千円とかついている。講談社で出ている並製の本まで二千円とついている。おや、なんでこんなに高いのだろうと思っていると、主人すかさず「日野日出志の本は絶版が多いんですよ」ということだった。どうやら日野日出志氏にはマニアックな熱烈なファンがいるらしい。わたしは『蔵六の奇病』(創美社版)を千五百円で購入した。まずは一冊読んでみようという感じであった。

 それから電車に乗って池袋に行き、まずは西部のリブロ書店に寄った。漫画コーナーの女店員に「日野日出志の本、どこにありますか」と訊くと、その店員は日野氏を知らなかった。これでは話にならない。次にジュンク堂の地下一階に行き、同じ質問をすると、その女店員「講談社本は現在在庫がありませんが、秋田書店のものはあります」と言って、すぐにその棚の所に案内してくれた。わたしはそこに置いてあった五冊ばかりの本を購入して帰って来た。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(2)...【タイトル頁を読み解く】

我孫子の知人で、日野日出志(以下、本分中では敬称は略する)の大ファンがおり、大学の講座で日野日出志が来るという話をしたら、ぜひサインを貰ってきてくれと頼まれ、彼から本(『日野日出志傑作選 怪奇のはらわた』講談社 一九九六年二月)を預かっていた。この本には「蔵六の奇病」「幻色の孤島」「はつかねずみ」「水の中」が収録されている。わたしが最初に読んだのはこの本である。そこで、まずはこの本の「蔵六の奇病」をテキストにして批評を展開して行くことにする。

 

タイトル頁、上部に「蔵六の奇病」の手書き白抜き文字、漢字にはすべてひらがなのルビが振ってある。漢字を読めない子供に対する出版社サイドの配慮と言えようか。漢字の下には汁(血液、精液、膿のような)が滴っている。中部右には障子が描かれ、そこには葉を落とした木が、不気味に枝を延ばしている。この木の枝はまるで神経細胞のようでもある。枯れ葉がシンボリックに描かれ、季節は〈冬〉である事を告示している。しかも、この〈冬〉は単なる季節上の冬ではなく、主人公における〈冬〉をも意味している。

 画面下部にこんもりと盛り上がった布団と、その中に身を潜めたものの両目が闇の中に描かれている。布団はまるで苔かカビのように描かれている。つまり、この穴の中に身を潜めたものは、ずいぶんと長いこと、この布団の中に引きこもっているということである。しかし彼は、穴のような隙間から外界を覗き見ている。つまり彼は、完璧に外界を遮断しているわけではない。むしろ彼は、外界との接触を願っているにもかかわらず、ある何かの理由によって外へ出ることを拒まれた存在と言った方が適切であるかも知れない。

 中央に黒点を打たれたまん丸の目は、決して彼が外界に関して敵意や恨みつらみを抱いた者のそれではないことを示している。全体にカビのはえたようなこんもりと盛り上がった布団は、言わば子宮(母胎)の隠喩であり、彼は胎内回帰をはたした存在とも言える。

しかし問題は、このカビのはえたような布団に象徴されているように、この胎内が彼にとって無条件に快適な空間足りえていないということである。彼の両目がしっかりと見開かれているということは、彼がこの闇の胎内において至福の眠りを得ることができなかったことを示している。

 彼は、胎内(布団の中)に満足することもできず、かといって外界へと一歩を踏み出していくこともできない。その中途半端な状態において、彼は実に長い間、この布団の中に身を潜めていなければならなかったのだ。彼の実存は闇の直中にあって、身を竦め、立ち上がることができないのだ。彼の内的状態は障子に映った枯れ木の枝に象徴されている。彼の神経は研ぎ澄まされ、不安の直中に置かれ、怯えている。この男には、希望の光はどこからも射さないのか。誰か、この男に救いの手を差しのばすことのできる者はいないのか。

 画面最下部に「日野日出志」という漫画家の名前が白抜き文字(約38級太ゴシック活字)で印刷されている。このペンネームは凄い。なにしろ〈日〉が二つもある。自分の存在に闇を感じ、その闇からの脱出を祈願する者でなければ自分のペンネームに〈日〉(太陽)を二つも付けたりはしないであろう。〈日〉が〈出〉るという〈志〉を抱いた闇の漫画家が日野日出志であり、カビのはえた布団の中に引きこもった主人公を助け出すことのできる者は、作者〈日野日出志〉しかいないのである。少なくとも、この漫画「蔵六の奇病」を描いた頃の日野日出志はそのように思っていたのではなかろうか。

 暗い穴の中から覗く二つの目を描いたのは日野日出志である。つまり、この二つの目は真先に作者日野日出志の目を見つめたということである。作者、日野日出志がこの主人公を救わずして、いったい誰が救うというのか。が、しかし、作者はその前に「蔵六の奇病」という漫画作品を完成させなければならない。一枚のタイトル頁に描かれた、主人公の実存の、出口のない閉塞状況は、はたして打開されるのか。それとも依然としてこの闇と不安の閉塞状況から抜け出すことはできないのか。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(2)...【タイトル頁を読み解く】

我孫子の知人で、日野日出志(以下、本分中では敬称は略する)の大ファンがおり、大学の講座で日野日出志が来るという話をしたら、ぜひサインを貰ってきてくれと頼まれ、彼から本(『日野日出志傑作選 怪奇のはらわた』講談社 一九九六年二月)を預かっていた。この本には「蔵六の奇病」「幻色の孤島」「はつかねずみ」「水の中」が収録されている。わたしが最初に読んだのはこの本である。そこで、まずはこの本の「蔵六の奇病」をテキストにして批評を展開して行くことにする。

 

タイトル頁、上部に「蔵六の奇病」の手書き白抜き文字、漢字にはすべてひらがなのルビが振ってある。漢字を読めない子供に対する出版社サイドの配慮と言えようか。漢字の下には汁(血液、精液、膿のような)が滴っている。中部右には障子が描かれ、そこには葉を落とした木が、不気味に枝を延ばしている。この木の枝はまるで神経細胞のようでもある。枯れ葉がシンボリックに描かれ、季節は〈冬〉である事を告示している。しかも、この〈冬〉は単なる季節上の冬ではなく、主人公における〈冬〉をも意味している。

 画面下部にこんもりと盛り上がった布団と、その中に身を潜めたものの両目が闇の中に描かれている。布団はまるで苔かカビのように描かれている。つまり、この穴の中に身を潜めたものは、ずいぶんと長いこと、この布団の中に引きこもっているということである。しかし彼は、穴のような隙間から外界を覗き見ている。つまり彼は、完璧に外界を遮断しているわけではない。むしろ彼は、外界との接触を願っているにもかかわらず、ある何かの理由によって外へ出ることを拒まれた存在と言った方が適切であるかも知れない。

 中央に黒点を打たれたまん丸の目は、決して彼が外界に関して敵意や恨みつらみを抱いた者のそれではないことを示している。全体にカビのはえたようなこんもりと盛り上がった布団は、言わば子宮(母胎)の隠喩であり、彼は胎内回帰をはたした存在とも言える。

しかし問題は、このカビのはえたような布団に象徴されているように、この胎内が彼にとって無条件に快適な空間足りえていないということである。彼の両目がしっかりと見開かれているということは、彼がこの闇の胎内において至福の眠りを得ることができなかったことを示している。

 彼は、胎内(布団の中)に満足することもできず、かといって外界へと一歩を踏み出していくこともできない。その中途半端な状態において、彼は実に長い間、この布団の中に身を潜めていなければならなかったのだ。彼の実存は闇の直中にあって、身を竦め、立ち上がることができないのだ。彼の内的状態は障子に映った枯れ木の枝に象徴されている。彼の神経は研ぎ澄まされ、不安の直中に置かれ、怯えている。この男には、希望の光はどこからも射さないのか。誰か、この男に救いの手を差しのばすことのできる者はいないのか。

 画面最下部に「日野日出志」という漫画家の名前が白抜き文字(約38級太ゴシック活字)で印刷されている。このペンネームは凄い。なにしろ〈日〉が二つもある。自分の存在に闇を感じ、その闇からの脱出を祈願する者でなければ自分のペンネームに〈日〉(太陽)を二つも付けたりはしないであろう。〈日〉が〈出〉るという〈志〉を抱いた闇の漫画家が日野日出志であり、カビのはえた布団の中に引きこもった主人公を助け出すことのできる者は、作者〈日野日出志〉しかいないのである。少なくとも、この漫画「蔵六の奇病」を描いた頃の日野日出志はそのように思っていたのではなかろうか。

 暗い穴の中から覗く二つの目を描いたのは日野日出志である。つまり、この二つの目は真先に作者日野日出志の目を見つめたということである。作者、日野日出志がこの主人公を救わずして、いったい誰が救うというのか。が、しかし、作者はその前に「蔵六の奇病」という漫画作品を完成させなければならない。一枚のタイトル頁に描かれた、主人公の実存の、出口のない閉塞状況は、はたして打開されるのか。それとも依然としてこの闇と不安の閉塞状況から抜け出すことはできないのか。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(2)...【タイトル頁を読み解く】

我孫子の知人で、日野日出志(以下、本分中では敬称は略する)の大ファンがおり、大学の講座で日野日出志が来るという話をしたら、ぜひサインを貰ってきてくれと頼まれ、彼から本(『日野日出志傑作選 怪奇のはらわた』講談社 一九九六年二月)を預かっていた。この本には「蔵六の奇病」「幻色の孤島」「はつかねずみ」「水の中」が収録されている。わたしが最初に読んだのはこの本である。そこで、まずはこの本の「蔵六の奇病」をテキストにして批評を展開して行くことにする。

 

タイトル頁、上部に「蔵六の奇病」の手書き白抜き文字、漢字にはすべてひらがなのルビが振ってある。漢字を読めない子供に対する出版社サイドの配慮と言えようか。漢字の下には汁(血液、精液、膿のような)が滴っている。中部右には障子が描かれ、そこには葉を落とした木が、不気味に枝を延ばしている。この木の枝はまるで神経細胞のようでもある。枯れ葉がシンボリックに描かれ、季節は〈冬〉である事を告示している。しかも、この〈冬〉は単なる季節上の冬ではなく、主人公における〈冬〉をも意味している。

 画面下部にこんもりと盛り上がった布団と、その中に身を潜めたものの両目が闇の中に描かれている。布団はまるで苔かカビのように描かれている。つまり、この穴の中に身を潜めたものは、ずいぶんと長いこと、この布団の中に引きこもっているということである。しかし彼は、穴のような隙間から外界を覗き見ている。つまり彼は、完璧に外界を遮断しているわけではない。むしろ彼は、外界との接触を願っているにもかかわらず、ある何かの理由によって外へ出ることを拒まれた存在と言った方が適切であるかも知れない。

 中央に黒点を打たれたまん丸の目は、決して彼が外界に関して敵意や恨みつらみを抱いた者のそれではないことを示している。全体にカビのはえたようなこんもりと盛り上がった布団は、言わば子宮(母胎)の隠喩であり、彼は胎内回帰をはたした存在とも言える。

しかし問題は、このカビのはえたような布団に象徴されているように、この胎内が彼にとって無条件に快適な空間足りえていないということである。彼の両目がしっかりと見開かれているということは、彼がこの闇の胎内において至福の眠りを得ることができなかったことを示している。

 彼は、胎内(布団の中)に満足することもできず、かといって外界へと一歩を踏み出していくこともできない。その中途半端な状態において、彼は実に長い間、この布団の中に身を潜めていなければならなかったのだ。彼の実存は闇の直中にあって、身を竦め、立ち上がることができないのだ。彼の内的状態は障子に映った枯れ木の枝に象徴されている。彼の神経は研ぎ澄まされ、不安の直中に置かれ、怯えている。この男には、希望の光はどこからも射さないのか。誰か、この男に救いの手を差しのばすことのできる者はいないのか。

 画面最下部に「日野日出志」という漫画家の名前が白抜き文字(約38級太ゴシック活字)で印刷されている。このペンネームは凄い。なにしろ〈日〉が二つもある。自分の存在に闇を感じ、その闇からの脱出を祈願する者でなければ自分のペンネームに〈日〉(太陽)を二つも付けたりはしないであろう。〈日〉が〈出〉るという〈志〉を抱いた闇の漫画家が日野日出志であり、カビのはえた布団の中に引きこもった主人公を助け出すことのできる者は、作者〈日野日出志〉しかいないのである。少なくとも、この漫画「蔵六の奇病」を描いた頃の日野日出志はそのように思っていたのではなかろうか。

 暗い穴の中から覗く二つの目を描いたのは日野日出志である。つまり、この二つの目は真先に作者日野日出志の目を見つめたということである。作者、日野日出志がこの主人公を救わずして、いったい誰が救うというのか。が、しかし、作者はその前に「蔵六の奇病」という漫画作品を完成させなければならない。一枚のタイトル頁に描かれた、主人公の実存の、出口のない閉塞状況は、はたして打開されるのか。それとも依然としてこの闇と不安の閉塞状況から抜け出すことはできないのか。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(3)...【烏のいる風景】

――見開き二頁を読み解く――

 タイトル頁をめくると、そこには見開き二頁を費やして、不気味な暗い沼が描かれている。中央部に「むかし さる国のあるところに 死期のせまった動物があつまる ふしぎな沼があった 人々は その沼を ねむり沼とよんで だれ一人近づく者はなかった」と書かれている。場所は〈さる国〉の〈あるところ〉ということである。〈さる国〉とは言っても、主人公の名前が蔵六というのであるから〈日本国〉のどこかであることに間違いはないだろう。ただ、〈さる国〉と書いて、国を特定しないことで幻想性(現実的な時空を超越した世界)を強調する効果を発揮している。

 

この不気味な黒い沼は〈死期のせまった動物〉の墓場のような場所として設定されている。朽ち果てた木の幹が沼に倒れ込み、その先にはまだ死んだばかりの動物(鹿のように見える)が烏に肉を啄まれている。肋骨が見え、目は溶けて飛びだしている。岸には数多くの動物の死骸(骨)が積み重なるようにして描かれている。木は年数を経た大木であるが、それはすでに枯れ果てているように見える。太い幹の根元には無数の茸が生え、この不気味な沼に生きているのは、死肉をあさる烏のみである。

 画面右上部に描かれた大木の枝には何十疋もの烏が羽根を休め、上空にも無数の烏が飛び交っている。画面左の枯れた大木には太い蔓が絡んでいる。この蔓はどう見ても植物の蔓ではなく、動物の腸のような長さと柔かみを持っている。この沼は〈ねむり沼〉と呼ばれ、誰一人近づく者はなかったと書かれている。

 さて、ここでまずは枯れ枝にとまっている烏、死肉を啄んでいる烏の目の表情に注目してみよう。目の黒い瞳が上部に描かれていることで、表情がなんともとぼけた感じを与える。烏は死を予告する動物であり、烏が群れをなして木にとまり、大声で泣くときは、その家に死者が出るとも伝えられている。雑食で、死肉も漁る烏は、その羽根の色が真っ黒ということもあって日本では不幸、不吉、不気味、死といった負のイメージが強い。が、日野日出志の描く烏は、その目の描き方によってどことなくユーモアが漂っている。絵から受ける印象は、ひとそれぞれで、一概には言えないことを承知の上で言えば、この絵からわたしは〈臭い〉(腐臭)を感じない。死期を間近に控えた動物たちが集まってくる沼であるから、画面全体から腐臭が漂ってきても当然なのだが、どういうわけか臭いがまったくしない。その沼は水というよりは、肉を溶かす硫酸のような液体だったのではないかと思えるほどである。

 もし、この沼が〈水〉(羊水)であったのなら、まさに〈ねむり沼〉という名にふさわしかったであろう。この世に誕生してきたすべての動物はいずれは死ななければならない。その〈死〉の世界が、自分の命を宿した所(子宮=母胎)であるなら、まさにそこは永遠の至福を約束するユートピアということになろう。しかし、ここに描かれた〈ねむり沼〉は、人を、動物を快適な眠りへといざなう〈母胎〉というよりは、やはり殺伐とした墓場という印象が強い。

 さらに気になるのは、烏の数の多さである。なぜこれほど多くの烏を描かなければならなかったのか。烏は群れをつくって生きる鳥である。寝床とする森や林に、多くの烏が集まってくるのは不思議ではない。しかし、作者はここで烏の習性を画面に反映させているわけではない。ここには作者の心理的な作為が働いている。烏は作者の〈注察妄想〉(監視カメラ)の隠喩として登場していたのではないだろうか。作者(および主人公)は、自分が不断に誰かから監視され見張られているという妄想に駆られていた可能性がある。ということは、作者は誰にも看破されてはならない秘密を持っていたことを意味する。〈看破されてはならない秘密〉を、無数の烏があばこうとしている。しかし、烏は、そんなことには我関せずといったとぼけた目をしている。もし、ここに描かれた無数の烏がいっせいに、作者の〈秘密〉に視線を合わせたら、こんな恐ろしいことはなかったであろう。おそらく作者は、自分が描いた烏の象徴的な意味を的確に把握してはいない。烏のおとぼけは意図的に、意識的になされたとは思えない。
 
無数の烏は、作者の〈秘密〉を隙あらばすぐに告発し、糾弾する〈社会〉であり〈世間〉の隠喩ともなっている。作者にとって〈ねむり沼〉の秘密は暴かれてはならない。しかし作者は同時に、その秘密が余すところなく暴かれ、真実を晒されたいという願いも潜めている。このアンビヴァレントな心理的葛藤と緊張の直中においてこの画面は作成されている。

 自分の才能を信じ、自分の仕事に邁進する青年期において、将来の不安を全く感じない者は稀であろう。日野日出志とて例外ではなかったはずである。この画面には、死に対する不安と恐怖、そして同時に死に対する凝視と憧れがある。人間は生まれて来た以上は死ななければならない。誰も近づかないといった〈ねむり沼〉(墓場)であるが、結局人間は誰一人の例外もなく墓場へとつかなければならない。この画面に、人の骨はなく、人間のみは死が免れているような錯覚に陥るが、そんな錯覚はすぐに醒めざるを得ない。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(3)...【烏のいる風景】

――見開き二頁を読み解く――

 タイトル頁をめくると、そこには見開き二頁を費やして、不気味な暗い沼が描かれている。中央部に「むかし さる国のあるところに 死期のせまった動物があつまる ふしぎな沼があった 人々は その沼を ねむり沼とよんで だれ一人近づく者はなかった」と書かれている。場所は〈さる国〉の〈あるところ〉ということである。〈さる国〉とは言っても、主人公の名前が蔵六というのであるから〈日本国〉のどこかであることに間違いはないだろう。ただ、〈さる国〉と書いて、国を特定しないことで幻想性(現実的な時空を超越した世界)を強調する効果を発揮している。

 

この不気味な黒い沼は〈死期のせまった動物〉の墓場のような場所として設定されている。朽ち果てた木の幹が沼に倒れ込み、その先にはまだ死んだばかりの動物(鹿のように見える)が烏に肉を啄まれている。肋骨が見え、目は溶けて飛びだしている。岸には数多くの動物の死骸(骨)が積み重なるようにして描かれている。木は年数を経た大木であるが、それはすでに枯れ果てているように見える。太い幹の根元には無数の茸が生え、この不気味な沼に生きているのは、死肉をあさる烏のみである。

 画面右上部に描かれた大木の枝には何十疋もの烏が羽根を休め、上空にも無数の烏が飛び交っている。画面左の枯れた大木には太い蔓が絡んでいる。この蔓はどう見ても植物の蔓ではなく、動物の腸のような長さと柔かみを持っている。この沼は〈ねむり沼〉と呼ばれ、誰一人近づく者はなかったと書かれている。

 さて、ここでまずは枯れ枝にとまっている烏、死肉を啄んでいる烏の目の表情に注目してみよう。目の黒い瞳が上部に描かれていることで、表情がなんともとぼけた感じを与える。烏は死を予告する動物であり、烏が群れをなして木にとまり、大声で泣くときは、その家に死者が出るとも伝えられている。雑食で、死肉も漁る烏は、その羽根の色が真っ黒ということもあって日本では不幸、不吉、不気味、死といった負のイメージが強い。が、日野日出志の描く烏は、その目の描き方によってどことなくユーモアが漂っている。絵から受ける印象は、ひとそれぞれで、一概には言えないことを承知の上で言えば、この絵からわたしは〈臭い〉(腐臭)を感じない。死期を間近に控えた動物たちが集まってくる沼であるから、画面全体から腐臭が漂ってきても当然なのだが、どういうわけか臭いがまったくしない。その沼は水というよりは、肉を溶かす硫酸のような液体だったのではないかと思えるほどである。

 もし、この沼が〈水〉(羊水)であったのなら、まさに〈ねむり沼〉という名にふさわしかったであろう。この世に誕生してきたすべての動物はいずれは死ななければならない。その〈死〉の世界が、自分の命を宿した所(子宮=母胎)であるなら、まさにそこは永遠の至福を約束するユートピアということになろう。しかし、ここに描かれた〈ねむり沼〉は、人を、動物を快適な眠りへといざなう〈母胎〉というよりは、やはり殺伐とした墓場という印象が強い。

 さらに気になるのは、烏の数の多さである。なぜこれほど多くの烏を描かなければならなかったのか。烏は群れをつくって生きる鳥である。寝床とする森や林に、多くの烏が集まってくるのは不思議ではない。しかし、作者はここで烏の習性を画面に反映させているわけではない。ここには作者の心理的な作為が働いている。烏は作者の〈注察妄想〉(監視カメラ)の隠喩として登場していたのではないだろうか。作者(および主人公)は、自分が不断に誰かから監視され見張られているという妄想に駆られていた可能性がある。ということは、作者は誰にも看破されてはならない秘密を持っていたことを意味する。〈看破されてはならない秘密〉を、無数の烏があばこうとしている。しかし、烏は、そんなことには我関せずといったとぼけた目をしている。もし、ここに描かれた無数の烏がいっせいに、作者の〈秘密〉に視線を合わせたら、こんな恐ろしいことはなかったであろう。おそらく作者は、自分が描いた烏の象徴的な意味を的確に把握してはいない。烏のおとぼけは意図的に、意識的になされたとは思えない。
 
無数の烏は、作者の〈秘密〉を隙あらばすぐに告発し、糾弾する〈社会〉であり〈世間〉の隠喩ともなっている。作者にとって〈ねむり沼〉の秘密は暴かれてはならない。しかし作者は同時に、その秘密が余すところなく暴かれ、真実を晒されたいという願いも潜めている。このアンビヴァレントな心理的葛藤と緊張の直中においてこの画面は作成されている。

 自分の才能を信じ、自分の仕事に邁進する青年期において、将来の不安を全く感じない者は稀であろう。日野日出志とて例外ではなかったはずである。この画面には、死に対する不安と恐怖、そして同時に死に対する凝視と憧れがある。人間は生まれて来た以上は死ななければならない。誰も近づかないといった〈ねむり沼〉(墓場)であるが、結局人間は誰一人の例外もなく墓場へとつかなければならない。この画面に、人の骨はなく、人間のみは死が免れているような錯覚に陥るが、そんな錯覚はすぐに醒めざるを得ない。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(3)...【烏のいる風景】

――見開き二頁を読み解く――

 タイトル頁をめくると、そこには見開き二頁を費やして、不気味な暗い沼が描かれている。中央部に「むかし さる国のあるところに 死期のせまった動物があつまる ふしぎな沼があった 人々は その沼を ねむり沼とよんで だれ一人近づく者はなかった」と書かれている。場所は〈さる国〉の〈あるところ〉ということである。〈さる国〉とは言っても、主人公の名前が蔵六というのであるから〈日本国〉のどこかであることに間違いはないだろう。ただ、〈さる国〉と書いて、国を特定しないことで幻想性(現実的な時空を超越した世界)を強調する効果を発揮している。

 

この不気味な黒い沼は〈死期のせまった動物〉の墓場のような場所として設定されている。朽ち果てた木の幹が沼に倒れ込み、その先にはまだ死んだばかりの動物(鹿のように見える)が烏に肉を啄まれている。肋骨が見え、目は溶けて飛びだしている。岸には数多くの動物の死骸(骨)が積み重なるようにして描かれている。木は年数を経た大木であるが、それはすでに枯れ果てているように見える。太い幹の根元には無数の茸が生え、この不気味な沼に生きているのは、死肉をあさる烏のみである。

 画面右上部に描かれた大木の枝には何十疋もの烏が羽根を休め、上空にも無数の烏が飛び交っている。画面左の枯れた大木には太い蔓が絡んでいる。この蔓はどう見ても植物の蔓ではなく、動物の腸のような長さと柔かみを持っている。この沼は〈ねむり沼〉と呼ばれ、誰一人近づく者はなかったと書かれている。

 さて、ここでまずは枯れ枝にとまっている烏、死肉を啄んでいる烏の目の表情に注目してみよう。目の黒い瞳が上部に描かれていることで、表情がなんともとぼけた感じを与える。烏は死を予告する動物であり、烏が群れをなして木にとまり、大声で泣くときは、その家に死者が出るとも伝えられている。雑食で、死肉も漁る烏は、その羽根の色が真っ黒ということもあって日本では不幸、不吉、不気味、死といった負のイメージが強い。が、日野日出志の描く烏は、その目の描き方によってどことなくユーモアが漂っている。絵から受ける印象は、ひとそれぞれで、一概には言えないことを承知の上で言えば、この絵からわたしは〈臭い〉(腐臭)を感じない。死期を間近に控えた動物たちが集まってくる沼であるから、画面全体から腐臭が漂ってきても当然なのだが、どういうわけか臭いがまったくしない。その沼は水というよりは、肉を溶かす硫酸のような液体だったのではないかと思えるほどである。

 もし、この沼が〈水〉(羊水)であったのなら、まさに〈ねむり沼〉という名にふさわしかったであろう。この世に誕生してきたすべての動物はいずれは死ななければならない。その〈死〉の世界が、自分の命を宿した所(子宮=母胎)であるなら、まさにそこは永遠の至福を約束するユートピアということになろう。しかし、ここに描かれた〈ねむり沼〉は、人を、動物を快適な眠りへといざなう〈母胎〉というよりは、やはり殺伐とした墓場という印象が強い。

 さらに気になるのは、烏の数の多さである。なぜこれほど多くの烏を描かなければならなかったのか。烏は群れをつくって生きる鳥である。寝床とする森や林に、多くの烏が集まってくるのは不思議ではない。しかし、作者はここで烏の習性を画面に反映させているわけではない。ここには作者の心理的な作為が働いている。烏は作者の〈注察妄想〉(監視カメラ)の隠喩として登場していたのではないだろうか。作者(および主人公)は、自分が不断に誰かから監視され見張られているという妄想に駆られていた可能性がある。ということは、作者は誰にも看破されてはならない秘密を持っていたことを意味する。〈看破されてはならない秘密〉を、無数の烏があばこうとしている。しかし、烏は、そんなことには我関せずといったとぼけた目をしている。もし、ここに描かれた無数の烏がいっせいに、作者の〈秘密〉に視線を合わせたら、こんな恐ろしいことはなかったであろう。おそらく作者は、自分が描いた烏の象徴的な意味を的確に把握してはいない。烏のおとぼけは意図的に、意識的になされたとは思えない。
 
無数の烏は、作者の〈秘密〉を隙あらばすぐに告発し、糾弾する〈社会〉であり〈世間〉の隠喩ともなっている。作者にとって〈ねむり沼〉の秘密は暴かれてはならない。しかし作者は同時に、その秘密が余すところなく暴かれ、真実を晒されたいという願いも潜めている。このアンビヴァレントな心理的葛藤と緊張の直中においてこの画面は作成されている。

 自分の才能を信じ、自分の仕事に邁進する青年期において、将来の不安を全く感じない者は稀であろう。日野日出志とて例外ではなかったはずである。この画面には、死に対する不安と恐怖、そして同時に死に対する凝視と憧れがある。人間は生まれて来た以上は死ななければならない。誰も近づかないといった〈ねむり沼〉(墓場)であるが、結局人間は誰一人の例外もなく墓場へとつかなければならない。この画面に、人の骨はなく、人間のみは死が免れているような錯覚に陥るが、そんな錯覚はすぐに醒めざるを得ない。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(4)...【蔵六という〈1人の農夫〉は自由人】

――共同体(秩序)と個人(自由)の相反――


 3頁1コマ絵のコメントは「そのねむり沼の近くの村に蔵六という1人の農夫が住んでいた」とある。画面右に木が描かれているが、この木の太い枝はのこぎりで切られており、葉はまばらに生えているだけで、わずかに残った枝は枯れている。画面左上部に桜の花が咲き乱れ、下部に藁拭き百姓家の一部が描かれている。画面中央下部に山へと続く一本道、その両脇に野原と畑が描かれ、その遠景にこんもりとした藁拭き屋根と三つの山が描かれている。

 全体の印象としては山村地帯の牧歌的な風景と見えるが、この画面を詳細に見るとまったく違った光景が浮上してくる。まず、左部に描かれた百姓家であるが、季節は春だというのに戸は閉められたままであり、何か閉塞的な息詰まりをおぼえる。家の上部に満開の桜が描かれているので、読者の目をあざむくが、余りにも華やかな桜の花の下に、実は〈悲劇〉が隠されていのだという暗示がある。

 中央の一本道は、はるか彼方へと続く希望と憧憬の隠喩であるが、その道の傍らに生えている、太い枝を断ち切られた、半分枯れかかった木は、主人公の希望の挫折と、息絶え絶えの衰弱した実存を暗示している。遠くに描かれた三つの藁拭き屋根は、牧歌的な光景の一部として描かれながら、同時に農村の閉塞的な人間関係そのものを暗示している。

 主人公が自らの夢を実現するためには〈三つの藁拭き屋根〉に象徴される村人の頑固な偏見と、〈三つの山〉に象徴される大きな壁(困難)を越えて行かなければならない。はたして主人公の夢は実現されるのか。一本道が山の麓に消える地点が白く描かれているので、あたかも主人公の未来は明るいもののようにも思える。しかし、ここには作者の作画上の詐術が働いていたと見た方がいい。もし、この部分を真っ黒にベタ塗りしたら、余りにもこの物語の暗い結末が予め読者に覚られてしまう。露骨な暗示を避けるのがプロの常套である。当時の日野日出志がどこまで意識的であったかは脇に置くとして、結果としてこの部分を白く描いた事は、主人公の未来をぼかす上でも、また両義的な解釈の余地を与える上でも効果的であったと言えよう。

 2コマ目にようやく主人公の蔵六が登場する。2、3、4コマ目のコメントに「蔵六の顔一面に……毒キノコのような七色のできものがふきだしたのは…村の桜も満開のころであった」とある。まずは蔵六の顔の特徴を見ておこう。鼻は横に広く大きな団子鼻、両は極端に離れ、その丸く描かれた白目に小さな黒い瞳が付いている。口は横に一本線で描かれ、顎は安物の皿のようである。この顔は誰が見ても美男子ではない。しかもこの不細工な顔一面に毒キノコのような七色のできものが吹き出してきたというのであるから、なんとも醜い顔となっている。ただし、蔵六の目だけは、掛け値なしに純朴と無垢を感じさせる。

 桜の満開の春の季節に、蔵六は顔一面に七色のできものを作っている。これはどういうことであろうか。4コマ絵に描かれた蔵六は縁側にしょんぼりと坐っている。両膝を抱えて、ぼんやりと庭を眺めているその姿はいかにも寂しそうである。傍らには紙と、墨をいれたお碗と、筆がある。庭には二匹の蝶が戯れ飛んでいるというのに、蔵六の心は少しも晴れない。何かを思い詰めたような目は、おそらく自分自身の内部に向けられているのであろう。

 5コマ目、画面左に長男の太郎が現れ「このばかが、しごともせんと、また、絵なんぞ描きくさりおって……」と怒鳴る。彼の被っている烏帽子は大小の丸模様で、この帽子自体が何か毒キノコのような感じを受ける。両股を開き、握り拳をつくり、口を大きく開いて前歯を剥き出し、両目をつり上げたその顔は、まさに鬼のような形相である。

 画面右の蔵六は依然として両膝を抱えたまま、怒鳴る兄の顔を横目で見ながら黙っている。そのとぼけた様な顔は、兄の怒りに怯えているようには見えない。どこかしら我関せずと言った顔つきにも見える。こういった顔は、自分の喜怒哀楽の感情を押し殺すことに慣れた顔と言っていい。この顔は、すでに何か自分にとって最も重要な事を断念した顔でもあるのだ。

 ここでもう一度、1コマ絵の〈太い枝〉(希望、夢)を断ち切られた木を思い出せばいいだろう。蔵六の夢は〈絵〉を描く事にある。しかしその夢は理不尽にも断ち切られる。誰が蔵六の〈太い枝〉(大きな夢)を断ち切ったのか。それはここで発せられた太郎の言葉にすべて圧縮されていよう。百姓の仕事は米や野菜をつくる野良仕事であって、家に閉じこもって絵を描くことではない。家を継ぐ長兄の太郎は、おそらく百姓仕事に毎日精を出していたであろう。ところが、蔵六は「しごともせんと」絵ばかり描いている。太郎にとって蔵六は〈ばか〉であり、無能な怠け者でしかない。同じ時に種を蒔き、同じ時に刈り入れをし、同じ時に祭りをする。農業は村人がお互いに助け合って作業しなければならないことが多くある。そこに自然と村の掟が出来上がり、それに反する者は軽蔑され相手にされない。酷い場合は村八分にされる。太郎はそういった農村共同体の規律や倫理を代表する者として発言している。蔵六の夢は絵を描くことであるから、もしその夢を貫こうとすれば、やがて彼は村の掟に背く者として排除される運命にある。

 6コマ目、太郎は怒りにまかせて「だからそんな気味の悪いできものなんぞこさえるんじゃい!」と言い放つ。5、6コマ目とも、太郎の背後(家の中)は黒くベタ塗りにされており、家の内部が闇に覆われていることを暗示している。7コマ目、蔵六の顔のアップ。皿のような下顎を突き出し、上目遣いで太郎の方を見ている。蔵六は依然として黙ったままで、兄に一言も口答えしない。が、もちろんだからと言って、蔵六は太郎の小言に納得しているわけではない。障子には目立たない程度に蔵六の黒い影が描かれている。この影が、蔵六の不満、反抗、怒り、憎悪の隠喩となっている。

 蔵六は〈農村共同体の論理〉を体現している兄の太郎から〈ばか〉と怒鳴れてはいるが、彼自身は自分を〈ばか〉などとは思っていない。蔵六には蔵六の夢があり、希望があり、大きな志があるのだ。しかし、蔵六は自分の夢をそのまま延ばしきることきできなかった。すでに〈太い枝〉は断ち切られているのだ。蔵六は、1コマ目に描かれた山の彼方へと続くまっすぐな一本道に飛び出て行くことはできなかったのだ。この道を毎日毎日、冬も、秋も、春も、夏も、ずっと眺め続けてきたのが蔵六である。しかし、にもかかわらず蔵六は、自分の家から抜け出していくことができなかった。蔵六の顔には長年にわたってため込んできた、鬱積した負の感情も見える。

 蔵六の顔に吹き出してきた〈毒キノコのような七色のできもの〉は、兄の太郎にとって〈気味の悪いできもの〉としてとらえられている。太郎は、多くの人間の声を代表している。蔵六の顔一面に吹き出した〈できもの〉を美しいと思う者はいない。やがて蔵六は太郎のみではなく、村のすべての者から、その〈できもの〉によって疎んじられることになるだろう。

 はたしてこの〈できもの〉はどのような意味を担っているのだろうか。〈できもの〉は〈毒キノコ〉としてやがて蔵六の身体を確実に蝕んでいくであろう。しかしこの〈できもの〉は同時に〈七色のできもの〉でもある、つまり彼の夢そのものを体現してもいるのだ。蔵六は現実の世界において、すなわち困難な三つの山を越えて自分の夢を実現することはできなかった。しかし蔵六は自分の夢を諦めることはできなかった。彼は捨て身の方法で夢を実現しようとはかる。つまり、自分自身の身体全体を絵の具製造所に変え、自分が目指す美を体現してしまおうとする非現実的な妄想的な試みである。言わば病者の試みであるが、この妄想患者風の試みを通して、美に賭けた一人の男を表現しつくそうとしたのが、とりもなおさず作者・日野日出志の悲願である。

(中略)

さいごに

 日野日出志氏の特別講義の後、航空公園駅近くの居酒屋「むらやま」で、四時間近く学生達を交えて話す機会があった。そこでわたしは「蔵六の奇病」に感じられる内蔵感覚の発露、原初的なドロドロしたもの、腐れゆくものに対する審美的な眼差しなどを指摘した。さらに酒がすすむにつれ、かなり打ち解けたなごやかな雰囲気の中で、この作品がつげ義春や今村昌平の影響を受けている事や、一筋縄では括れない母胎回帰願望の表出、さらに実は母と父は不在であったなどという発言をした。

 日野氏はつげ義春という漫画家の存在がなければ「蔵六の奇病」や「地獄編」などの作品は生まれなかった事、今村昌平という映画監督のファンであった事などを率直に話された。また「蔵六の奇病」を解読する上で重要なヒントとなる、男だけの四人兄弟の長男である事、母親の乳房を二歳になる前に弟に奪われ、自分はおばあさんのしなびた〈おっぱい〉をくわえていた事、父親が板金の仕事をしていて家に〈硫酸〉の瓶が置いてあった事……などを話された。

 日野氏は「蔵六の奇病」を自分の作品の中の最高傑作と位置づけ、この作品の中に自分の総てが含まれていると何度も強調された。この席で、わたしは日野氏の漫画に特徴なの図柄は〈丸〉と指摘し、それは母胎であり、母と子の合一の至福の徴であるなどとも指摘した。日野氏は、「蔵六の奇病」が読者や批評家に解読されるわけがない、この作品は自分にしか分からない、自分の体験に基づく心象なのだと強調した。わたしは批評は作者の意図をも超えて創造的な仕事であり、作品はいかなる批評によっても自立した確固たる世界を構築していなければならないと語った。わたしは「蔵六の奇病」論を書く事を約束し、批評は愛であり祈りである、批評は作者を感動させる力を持っていなければいけない、などと語った。この論が多少とも作者の共感を呼ぶものとなっていれば幸いである。

 この「蔵六の奇病」論は日野氏と出会った翌日の二〇〇四年四月二十七日から書きはじめ、五月三日に書きおえた。久しぶりに漫画批評で興奮した一週間であった。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(4)...【蔵六という〈1人の農夫〉は自由人】

――共同体(秩序)と個人(自由)の相反――


 3頁1コマ絵のコメントは「そのねむり沼の近くの村に蔵六という1人の農夫が住んでいた」とある。画面右に木が描かれているが、この木の太い枝はのこぎりで切られており、葉はまばらに生えているだけで、わずかに残った枝は枯れている。画面左上部に桜の花が咲き乱れ、下部に藁拭き百姓家の一部が描かれている。画面中央下部に山へと続く一本道、その両脇に野原と畑が描かれ、その遠景にこんもりとした藁拭き屋根と三つの山が描かれている。

 全体の印象としては山村地帯の牧歌的な風景と見えるが、この画面を詳細に見るとまったく違った光景が浮上してくる。まず、左部に描かれた百姓家であるが、季節は春だというのに戸は閉められたままであり、何か閉塞的な息詰まりをおぼえる。家の上部に満開の桜が描かれているので、読者の目をあざむくが、余りにも華やかな桜の花の下に、実は〈悲劇〉が隠されていのだという暗示がある。

 中央の一本道は、はるか彼方へと続く希望と憧憬の隠喩であるが、その道の傍らに生えている、太い枝を断ち切られた、半分枯れかかった木は、主人公の希望の挫折と、息絶え絶えの衰弱した実存を暗示している。遠くに描かれた三つの藁拭き屋根は、牧歌的な光景の一部として描かれながら、同時に農村の閉塞的な人間関係そのものを暗示している。

 主人公が自らの夢を実現するためには〈三つの藁拭き屋根〉に象徴される村人の頑固な偏見と、〈三つの山〉に象徴される大きな壁(困難)を越えて行かなければならない。はたして主人公の夢は実現されるのか。一本道が山の麓に消える地点が白く描かれているので、あたかも主人公の未来は明るいもののようにも思える。しかし、ここには作者の作画上の詐術が働いていたと見た方がいい。もし、この部分を真っ黒にベタ塗りしたら、余りにもこの物語の暗い結末が予め読者に覚られてしまう。露骨な暗示を避けるのがプロの常套である。当時の日野日出志がどこまで意識的であったかは脇に置くとして、結果としてこの部分を白く描いた事は、主人公の未来をぼかす上でも、また両義的な解釈の余地を与える上でも効果的であったと言えよう。

 2コマ目にようやく主人公の蔵六が登場する。2、3、4コマ目のコメントに「蔵六の顔一面に……毒キノコのような七色のできものがふきだしたのは…村の桜も満開のころであった」とある。まずは蔵六の顔の特徴を見ておこう。鼻は横に広く大きな団子鼻、両は極端に離れ、その丸く描かれた白目に小さな黒い瞳が付いている。口は横に一本線で描かれ、顎は安物の皿のようである。この顔は誰が見ても美男子ではない。しかもこの不細工な顔一面に毒キノコのような七色のできものが吹き出してきたというのであるから、なんとも醜い顔となっている。ただし、蔵六の目だけは、掛け値なしに純朴と無垢を感じさせる。

 桜の満開の春の季節に、蔵六は顔一面に七色のできものを作っている。これはどういうことであろうか。4コマ絵に描かれた蔵六は縁側にしょんぼりと坐っている。両膝を抱えて、ぼんやりと庭を眺めているその姿はいかにも寂しそうである。傍らには紙と、墨をいれたお碗と、筆がある。庭には二匹の蝶が戯れ飛んでいるというのに、蔵六の心は少しも晴れない。何かを思い詰めたような目は、おそらく自分自身の内部に向けられているのであろう。

 5コマ目、画面左に長男の太郎が現れ「このばかが、しごともせんと、また、絵なんぞ描きくさりおって……」と怒鳴る。彼の被っている烏帽子は大小の丸模様で、この帽子自体が何か毒キノコのような感じを受ける。両股を開き、握り拳をつくり、口を大きく開いて前歯を剥き出し、両目をつり上げたその顔は、まさに鬼のような形相である。

 画面右の蔵六は依然として両膝を抱えたまま、怒鳴る兄の顔を横目で見ながら黙っている。そのとぼけた様な顔は、兄の怒りに怯えているようには見えない。どこかしら我関せずと言った顔つきにも見える。こういった顔は、自分の喜怒哀楽の感情を押し殺すことに慣れた顔と言っていい。この顔は、すでに何か自分にとって最も重要な事を断念した顔でもあるのだ。

 ここでもう一度、1コマ絵の〈太い枝〉(希望、夢)を断ち切られた木を思い出せばいいだろう。蔵六の夢は〈絵〉を描く事にある。しかしその夢は理不尽にも断ち切られる。誰が蔵六の〈太い枝〉(大きな夢)を断ち切ったのか。それはここで発せられた太郎の言葉にすべて圧縮されていよう。百姓の仕事は米や野菜をつくる野良仕事であって、家に閉じこもって絵を描くことではない。家を継ぐ長兄の太郎は、おそらく百姓仕事に毎日精を出していたであろう。ところが、蔵六は「しごともせんと」絵ばかり描いている。太郎にとって蔵六は〈ばか〉であり、無能な怠け者でしかない。同じ時に種を蒔き、同じ時に刈り入れをし、同じ時に祭りをする。農業は村人がお互いに助け合って作業しなければならないことが多くある。そこに自然と村の掟が出来上がり、それに反する者は軽蔑され相手にされない。酷い場合は村八分にされる。太郎はそういった農村共同体の規律や倫理を代表する者として発言している。蔵六の夢は絵を描くことであるから、もしその夢を貫こうとすれば、やがて彼は村の掟に背く者として排除される運命にある。

 6コマ目、太郎は怒りにまかせて「だからそんな気味の悪いできものなんぞこさえるんじゃい!」と言い放つ。5、6コマ目とも、太郎の背後(家の中)は黒くベタ塗りにされており、家の内部が闇に覆われていることを暗示している。7コマ目、蔵六の顔のアップ。皿のような下顎を突き出し、上目遣いで太郎の方を見ている。蔵六は依然として黙ったままで、兄に一言も口答えしない。が、もちろんだからと言って、蔵六は太郎の小言に納得しているわけではない。障子には目立たない程度に蔵六の黒い影が描かれている。この影が、蔵六の不満、反抗、怒り、憎悪の隠喩となっている。

 蔵六は〈農村共同体の論理〉を体現している兄の太郎から〈ばか〉と怒鳴れてはいるが、彼自身は自分を〈ばか〉などとは思っていない。蔵六には蔵六の夢があり、希望があり、大きな志があるのだ。しかし、蔵六は自分の夢をそのまま延ばしきることきできなかった。すでに〈太い枝〉は断ち切られているのだ。蔵六は、1コマ目に描かれた山の彼方へと続くまっすぐな一本道に飛び出て行くことはできなかったのだ。この道を毎日毎日、冬も、秋も、春も、夏も、ずっと眺め続けてきたのが蔵六である。しかし、にもかかわらず蔵六は、自分の家から抜け出していくことができなかった。蔵六の顔には長年にわたってため込んできた、鬱積した負の感情も見える。

 蔵六の顔に吹き出してきた〈毒キノコのような七色のできもの〉は、兄の太郎にとって〈気味の悪いできもの〉としてとらえられている。太郎は、多くの人間の声を代表している。蔵六の顔一面に吹き出した〈できもの〉を美しいと思う者はいない。やがて蔵六は太郎のみではなく、村のすべての者から、その〈できもの〉によって疎んじられることになるだろう。

 はたしてこの〈できもの〉はどのような意味を担っているのだろうか。〈できもの〉は〈毒キノコ〉としてやがて蔵六の身体を確実に蝕んでいくであろう。しかしこの〈できもの〉は同時に〈七色のできもの〉でもある、つまり彼の夢そのものを体現してもいるのだ。蔵六は現実の世界において、すなわち困難な三つの山を越えて自分の夢を実現することはできなかった。しかし蔵六は自分の夢を諦めることはできなかった。彼は捨て身の方法で夢を実現しようとはかる。つまり、自分自身の身体全体を絵の具製造所に変え、自分が目指す美を体現してしまおうとする非現実的な妄想的な試みである。言わば病者の試みであるが、この妄想患者風の試みを通して、美に賭けた一人の男を表現しつくそうとしたのが、とりもなおさず作者・日野日出志の悲願である。

(中略)

さいごに

 日野日出志氏の特別講義の後、航空公園駅近くの居酒屋「むらやま」で、四時間近く学生達を交えて話す機会があった。そこでわたしは「蔵六の奇病」に感じられる内蔵感覚の発露、原初的なドロドロしたもの、腐れゆくものに対する審美的な眼差しなどを指摘した。さらに酒がすすむにつれ、かなり打ち解けたなごやかな雰囲気の中で、この作品がつげ義春や今村昌平の影響を受けている事や、一筋縄では括れない母胎回帰願望の表出、さらに実は母と父は不在であったなどという発言をした。

 日野氏はつげ義春という漫画家の存在がなければ「蔵六の奇病」や「地獄編」などの作品は生まれなかった事、今村昌平という映画監督のファンであった事などを率直に話された。また「蔵六の奇病」を解読する上で重要なヒントとなる、男だけの四人兄弟の長男である事、母親の乳房を二歳になる前に弟に奪われ、自分はおばあさんのしなびた〈おっぱい〉をくわえていた事、父親が板金の仕事をしていて家に〈硫酸〉の瓶が置いてあった事……などを話された。

 日野氏は「蔵六の奇病」を自分の作品の中の最高傑作と位置づけ、この作品の中に自分の総てが含まれていると何度も強調された。この席で、わたしは日野氏の漫画に特徴なの図柄は〈丸〉と指摘し、それは母胎であり、母と子の合一の至福の徴であるなどとも指摘した。日野氏は、「蔵六の奇病」が読者や批評家に解読されるわけがない、この作品は自分にしか分からない、自分の体験に基づく心象なのだと強調した。わたしは批評は作者の意図をも超えて創造的な仕事であり、作品はいかなる批評によっても自立した確固たる世界を構築していなければならないと語った。わたしは「蔵六の奇病」論を書く事を約束し、批評は愛であり祈りである、批評は作者を感動させる力を持っていなければいけない、などと語った。この論が多少とも作者の共感を呼ぶものとなっていれば幸いである。

 この「蔵六の奇病」論は日野氏と出会った翌日の二〇〇四年四月二十七日から書きはじめ、五月三日に書きおえた。久しぶりに漫画批評で興奮した一週間であった。

日野日出志「蔵六の奇病」を読み解く(4)...【蔵六という〈1人の農夫〉は自由人】

――共同体(秩序)と個人(自由)の相反――


 3頁1コマ絵のコメントは「そのねむり沼の近くの村に蔵六という1人の農夫が住んでいた」とある。画面右に木が描かれているが、この木の太い枝はのこぎりで切られており、葉はまばらに生えているだけで、わずかに残った枝は枯れている。画面左上部に桜の花が咲き乱れ、下部に藁拭き百姓家の一部が描かれている。画面中央下部に山へと続く一本道、その両脇に野原と畑が描かれ、その遠景にこんもりとした藁拭き屋根と三つの山が描かれている。

 全体の印象としては山村地帯の牧歌的な風景と見えるが、この画面を詳細に見るとまったく違った光景が浮上してくる。まず、左部に描かれた百姓家であるが、季節は春だというのに戸は閉められたままであり、何か閉塞的な息詰まりをおぼえる。家の上部に満開の桜が描かれているので、読者の目をあざむくが、余りにも華やかな桜の花の下に、実は〈悲劇〉が隠されていのだという暗示がある。

 中央の一本道は、はるか彼方へと続く希望と憧憬の隠喩であるが、その道の傍らに生えている、太い枝を断ち切られた、半分枯れかかった木は、主人公の希望の挫折と、息絶え絶えの衰弱した実存を暗示している。遠くに描かれた三つの藁拭き屋根は、牧歌的な光景の一部として描かれながら、同時に農村の閉塞的な人間関係そのものを暗示している。

 主人公が自らの夢を実現するためには〈三つの藁拭き屋根〉に象徴される村人の頑固な偏見と、〈三つの山〉に象徴される大きな壁(困難)を越えて行かなければならない。はたして主人公の夢は実現されるのか。一本道が山の麓に消える地点が白く描かれているので、あたかも主人公の未来は明るいもののようにも思える。しかし、ここには作者の作画上の詐術が働いていたと見た方がいい。もし、この部分を真っ黒にベタ塗りしたら、余りにもこの物語の暗い結末が予め読者に覚られてしまう。露骨な暗示を避けるのがプロの常套である。当時の日野日出志がどこまで意識的であったかは脇に置くとして、結果としてこの部分を白く描いた事は、主人公の未来をぼかす上でも、また両義的な解釈の余地を与える上でも効果的であったと言えよう。

 2コマ目にようやく主人公の蔵六が登場する。2、3、4コマ目のコメントに「蔵六の顔一面に……毒キノコのような七色のできものがふきだしたのは…村の桜も満開のころであった」とある。まずは蔵六の顔の特徴を見ておこう。鼻は横に広く大きな団子鼻、両は極端に離れ、その丸く描かれた白目に小さな黒い瞳が付いている。口は横に一本線で描かれ、顎は安物の皿のようである。この顔は誰が見ても美男子ではない。しかもこの不細工な顔一面に毒キノコのような七色のできものが吹き出してきたというのであるから、なんとも醜い顔となっている。ただし、蔵六の目だけは、掛け値なしに純朴と無垢を感じさせる。

 桜の満開の春の季節に、蔵六は顔一面に七色のできものを作っている。これはどういうことであろうか。4コマ絵に描かれた蔵六は縁側にしょんぼりと坐っている。両膝を抱えて、ぼんやりと庭を眺めているその姿はいかにも寂しそうである。傍らには紙と、墨をいれたお碗と、筆がある。庭には二匹の蝶が戯れ飛んでいるというのに、蔵六の心は少しも晴れない。何かを思い詰めたような目は、おそらく自分自身の内部に向けられているのであろう。

 5コマ目、画面左に長男の太郎が現れ「このばかが、しごともせんと、また、絵なんぞ描きくさりおって……」と怒鳴る。彼の被っている烏帽子は大小の丸模様で、この帽子自体が何か毒キノコのような感じを受ける。両股を開き、握り拳をつくり、口を大きく開いて前歯を剥き出し、両目をつり上げたその顔は、まさに鬼のような形相である。

 画面右の蔵六は依然として両膝を抱えたまま、怒鳴る兄の顔を横目で見ながら黙っている。そのとぼけた様な顔は、兄の怒りに怯えているようには見えない。どこかしら我関せずと言った顔つきにも見える。こういった顔は、自分の喜怒哀楽の感情を押し殺すことに慣れた顔と言っていい。この顔は、すでに何か自分にとって最も重要な事を断念した顔でもあるのだ。

 ここでもう一度、1コマ絵の〈太い枝〉(希望、夢)を断ち切られた木を思い出せばいいだろう。蔵六の夢は〈絵〉を描く事にある。しかしその夢は理不尽にも断ち切られる。誰が蔵六の〈太い枝〉(大きな夢)を断ち切ったのか。それはここで発せられた太郎の言葉にすべて圧縮されていよう。百姓の仕事は米や野菜をつくる野良仕事であって、家に閉じこもって絵を描くことではない。家を継ぐ長兄の太郎は、おそらく百姓仕事に毎日精を出していたであろう。ところが、蔵六は「しごともせんと」絵ばかり描いている。太郎にとって蔵六は〈ばか〉であり、無能な怠け者でしかない。同じ時に種を蒔き、同じ時に刈り入れをし、同じ時に祭りをする。農業は村人がお互いに助け合って作業しなければならないことが多くある。そこに自然と村の掟が出来上がり、それに反する者は軽蔑され相手にされない。酷い場合は村八分にされる。太郎はそういった農村共同体の規律や倫理を代表する者として発言している。蔵六の夢は絵を描くことであるから、もしその夢を貫こうとすれば、やがて彼は村の掟に背く者として排除される運命にある。

 6コマ目、太郎は怒りにまかせて「だからそんな気味の悪いできものなんぞこさえるんじゃい!」と言い放つ。5、6コマ目とも、太郎の背後(家の中)は黒くベタ塗りにされており、家の内部が闇に覆われていることを暗示している。7コマ目、蔵六の顔のアップ。皿のような下顎を突き出し、上目遣いで太郎の方を見ている。蔵六は依然として黙ったままで、兄に一言も口答えしない。が、もちろんだからと言って、蔵六は太郎の小言に納得しているわけではない。障子には目立たない程度に蔵六の黒い影が描かれている。この影が、蔵六の不満、反抗、怒り、憎悪の隠喩となっている。

 蔵六は〈農村共同体の論理〉を体現している兄の太郎から〈ばか〉と怒鳴れてはいるが、彼自身は自分を〈ばか〉などとは思っていない。蔵六には蔵六の夢があり、希望があり、大きな志があるのだ。しかし、蔵六は自分の夢をそのまま延ばしきることきできなかった。すでに〈太い枝〉は断ち切られているのだ。蔵六は、1コマ目に描かれた山の彼方へと続くまっすぐな一本道に飛び出て行くことはできなかったのだ。この道を毎日毎日、冬も、秋も、春も、夏も、ずっと眺め続けてきたのが蔵六である。しかし、にもかかわらず蔵六は、自分の家から抜け出していくことができなかった。蔵六の顔には長年にわたってため込んできた、鬱積した負の感情も見える。

 蔵六の顔に吹き出してきた〈毒キノコのような七色のできもの〉は、兄の太郎にとって〈気味の悪いできもの〉としてとらえられている。太郎は、多くの人間の声を代表している。蔵六の顔一面に吹き出した〈できもの〉を美しいと思う者はいない。やがて蔵六は太郎のみではなく、村のすべての者から、その〈できもの〉によって疎んじられることになるだろう。

 はたしてこの〈できもの〉はどのような意味を担っているのだろうか。〈できもの〉は〈毒キノコ〉としてやがて蔵六の身体を確実に蝕んでいくであろう。しかしこの〈できもの〉は同時に〈七色のできもの〉でもある、つまり彼の夢そのものを体現してもいるのだ。蔵六は現実の世界において、すなわち困難な三つの山を越えて自分の夢を実現することはできなかった。しかし蔵六は自分の夢を諦めることはできなかった。彼は捨て身の方法で夢を実現しようとはかる。つまり、自分自身の身体全体を絵の具製造所に変え、自分が目指す美を体現してしまおうとする非現実的な妄想的な試みである。言わば病者の試みであるが、この妄想患者風の試みを通して、美に賭けた一人の男を表現しつくそうとしたのが、とりもなおさず作者・日野日出志の悲願である。

(中略)

さいごに

 日野日出志氏の特別講義の後、航空公園駅近くの居酒屋「むらやま」で、四時間近く学生達を交えて話す機会があった。そこでわたしは「蔵六の奇病」に感じられる内蔵感覚の発露、原初的なドロドロしたもの、腐れゆくものに対する審美的な眼差しなどを指摘した。さらに酒がすすむにつれ、かなり打ち解けたなごやかな雰囲気の中で、この作品がつげ義春や今村昌平の影響を受けている事や、一筋縄では括れない母胎回帰願望の表出、さらに実は母と父は不在であったなどという発言をした。

 日野氏はつげ義春という漫画家の存在がなければ「蔵六の奇病」や「地獄編」などの作品は生まれなかった事、今村昌平という映画監督のファンであった事などを率直に話された。また「蔵六の奇病」を解読する上で重要なヒントとなる、男だけの四人兄弟の長男である事、母親の乳房を二歳になる前に弟に奪われ、自分はおばあさんのしなびた〈おっぱい〉をくわえていた事、父親が板金の仕事をしていて家に〈硫酸〉の瓶が置いてあった事……などを話された。

 日野氏は「蔵六の奇病」を自分の作品の中の最高傑作と位置づけ、この作品の中に自分の総てが含まれていると何度も強調された。この席で、わたしは日野氏の漫画に特徴なの図柄は〈丸〉と指摘し、それは母胎であり、母と子の合一の至福の徴であるなどとも指摘した。日野氏は、「蔵六の奇病」が読者や批評家に解読されるわけがない、この作品は自分にしか分からない、自分の体験に基づく心象なのだと強調した。わたしは批評は作者の意図をも超えて創造的な仕事であり、作品はいかなる批評によっても自立した確固たる世界を構築していなければならないと語った。わたしは「蔵六の奇病」論を書く事を約束し、批評は愛であり祈りである、批評は作者を感動させる力を持っていなければいけない、などと語った。この論が多少とも作者の共感を呼ぶものとなっていれば幸いである。

 この「蔵六の奇病」論は日野氏と出会った翌日の二〇〇四年四月二十七日から書きはじめ、五月三日に書きおえた。久しぶりに漫画批評で興奮した一週間であった。

2004年5月20日

【学生の声】 5月10日「マンガ論」

5月10日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声131件中から24枚(原文まま)を以下に紹介します。

丁寧にまんがを読み解いていくことによって作者の意図を越えた色々な解釈が生まれるということはおもしろい事実であると思いました。また「蔵六の奇病」はその話自体も、先生の解釈も非常におもしろかったです。(油原陽子・文芸学科1年)

先生の解読は生徒の意見を大切にするので、このマンガのポイントがとてもわかりやすかった。自分一人で読んだままではマンガの魅力が30%くらいしか把握できなかったと思う。自分はマンガ好きだと自負していたが全然甘かったので、先生の授業を聞いてもっともっとマンガを楽しめるようにしたい。一コマ一コマ細かく解読してくれたので、マンガの作り(構成)のようなものも少しわかった。今後もよろしくお願いします。(宮原悟郎・放送学科2年)

普通に見ていた人形のシルエットやピースの空き箱の意味、というか解釈には、本当に「なるほどー」と思った。蔵六の奇病も読んでみたいと思った。(佐藤由季・文芸学科1年)

この間は航空公園での飲み会でお世話になりました。先生の話は「なるほど」とうなづける話が多く、目からウロコの連続です。例えば「チーコ」のpeaceの話。「なるほど、そういう読み方もあるのか」とテキストが広がりをもって眼前にせまる感じがしました。ところで、ドストエフスキーですが、今、「罪と罰」を読んでいます。読み終えたら感想を聞いて下さい。それではまたよろしくお願いします。(佐藤裕太・文芸学科1年)
  
今日の講義に出た日野日出志さんの「蔵六の奇病」を始めとするホラー漫画はその絵のおどろおどろしさに敬遠しがちだが、とても奥深く内容の濃いことに驚いた。今風のテーマの漫画に慣れ親しんでいるので、まるで日本昔話を見ているように感じた。(新井敦子・映画学科1年)

タイトルの1コマ目がとても重要な意味をもっていることがよくわかった。細やかな観察がそのものの価値以上をひきだすというのは芸術家にとっては脅威だと思う。(山口晋似郎・放送学科1年)

”蔵六の奇病”を自分もちゃんと読んでみたいと思った。マンガは奥が深い・・・・・・・。(藤井奈津美・文芸学科1年)

マンガの中にはたくさんの意味が考えられるということが先生の講義を受けて思いました。「蔵六の奇病」の話はとても不気味で想像したくないのに想像してしまい、顔をしかめて聞いていました。あんな不気味な話の中に親に対する気持ちがえがかれているとは思ってもいませんでした。(香月瞳子・演劇学科1年)

テキストの解体と再構築、話を聞いて初めて「なるほど」と納得します。蔵六のあの泣き顔、抱き締めたくなりました。(杉澤麻里子・文芸学科1年)

「蔵六の奇病」というマンガにそのような多々の解釈が付けられるとは思わなかった。「チーコ」にしても、はじめこのマンガは何を言いたいのだろうと思っていたが、再構築することで奥行きが生まれ、味が出てくる。マンガは一般的には子供じみて勉強にならないものと思われてるが、そんなことはない、いろいろな楽しみ方ができるのだと思った。(原彩子・文芸学科1年)

私は末っ子でどちらかと言えば甘やかされて育ったが、姉2人も私に母のおっぱいを取られ、切なかったのかなぁ・・・(阿久澤風貴子・演劇学科2年)

「蔵六の奇病」のキノコがおっぱいとか、沼が硫酸とかいう見方は、すごく深いと思いました。「チーコ」は個人的にそんなにおもしろくはなかったけど、すごく切なさを感じました。(横山辰郎・映画学科1年)

読者の想像力しだいで、作者の想定した以上のものがつくれるのですね。「蔵六の奇病」はすさまじい話ですな・・・。ここまで子供の母への執着心について描いた作品はないのではないだろうか。全てが何かの象徴だとするならば、マンガも人生観もどんどん変わっていきますね。(村瀬一路・放送学科1年)

チーコは最後は「自由」になったのだと思います。つまり、奥さんも、この後、男の元を去るのではないでしょうか、と思いました。母体回帰の話に納得してしまいました。作者の深層心理にも深く関わってくるものなんですね・・・。勉強になります。(高橋由季・文芸学科1年)

「批評は創造である」というような発言に、今まで自分の中にあった「批評の存在意義とは何か」といった疑問に対する1つの意見提示がなされ、この授業に対する見方も変わりました。そこが一番のハイライトでした、個人的に。(藤原亮・文芸学科1年)

ものすごい楽しかった。いやはっきりいって批評などは意味のないものと思っていた。が、しかし、たしかに作家を感動させ、説明をうける者を感動させる力がある!マンガはやっぱりすばらしい、僕にとってマンガは”僕”を形成する大きな割合いをしめています!(山中勝仁・演劇学科2年)

批評家が作家を感動させる批評をしなければならないというのはすこし納得した。(川岸真人・美術学科2年)

3週にわたって読んできた「チーコ」は、一番最初に読んだ時よりも、全く違った見方になりました。細かい描写を見ていくことにより、わかってくるものが多く、またそれによって、作者の伝えたいことや、暗示されているものが多いのだと思いました。自分で深く考え、見ながら読むことの楽しさを少しわかりました。(中西沙織・放送学科2年)

いつものようにマンガを読んでいたら絶対に見落とすようなことや裏の考えまで細かく説明してくださったので、とてもおもしろかったです。「蔵六」、是非読んでみたいです。(鈴木涼子・演劇学科2年)

この講義を受けるまで、マンガがこんな風に読めるとは知らなかった。また「チーコ」を読むことが出来て良かった。この講義に出なければ一生読むことはなかったと思う。あと自分も今村昌平の大ファンです。(武田英樹・映画学科1年)

「テキストは成長する」名言ですね、素敵です。その通りだと思います。人にはそれぞれの見方がありストーリーがある。よって2次元のマンガが3次元になり多面体として存在する。想像力の大切さを教わった気がしました。次回も期待しています。(坂東博明・文芸学科1年)

蔵六の奇病は是非読んでみたいと思います。蔵六の苦難は、キリストの受難に置き換えて読むことも可能なのではないでしょうか?(小山田裕哉・映画学科2年)

もっとマンガを読む時に、すみずみまで絵を見ていこうと思いました。(藤枝美絵・演劇学科2年)

マンガ一つにも色々な読み方があるのだと痛感した。今まで読んだマンガも読み返してみようと思う。(杉山泰朗・放送学科2年)

2004年5月22日

【学生の声】 5月17日「マンガ論」


 5月17日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声128件中から5件(原文まま)を以下に紹介します。
     _______________________

「蹴りたい背中」からの話の広がりがおもしろかった。普段、心の耳をすまして、心の目を開いていれば、何てことない日常もすばらしい小説になるのだとわかりました。(高橋由季・文芸学科1年)

宮崎駿の中にあるテロリズムに興味を持った。(櫻井与子・演劇学科1年)

本を読むにしろ映画を観るにしろ謙虚さが大切という事が印象的でした。(藤森圭太郎・演劇学科2年)

「カラマーゾフの兄弟」読みたいです。(石井優次・文芸学科1年)

カラマーゾフの兄弟にすごく興味を持ちました。早く読んでみたいです。(五十嵐綾野・文芸学科1年)

2004年5月24日

【学生の声】 5月24日「マンガ論」

5月24日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声135件中から11件(原文のまま)を以下に紹介します。
_______________________

男性には、そんなに母胎回帰願望というものがあるのか…と思った。女性は、自分そのものが母胎になるので母胎回帰という願望はあまり無いのではないかと思う。(佐藤由季・文芸学科1年)

今日は先生以外の学生の見解が聞けておもしろかったです。母が「つげマンガは深い」と言って、講義を受けたがってました。(笹本薫・文芸学科1年)

「海辺の女景」にはゾクッとした。一番最後のコマはまさに「海辺の女景」だと思った。男は死んでいると思います。寒気のする作品でした。(次田時・写真学科2年)

自分は全く分からないとしか言いようがなかった「海辺の叙景」に、先生が全く考えつかないような解釈を加えててビックリしました。また、みなさんいろんな考えを持ってるんだなと思いました。おもしろかったです。(八幡夏美・演劇学科2年)

ボートのとこにすわってるのが遺影になってるのはすごくびっくりしました。(宮崎敦子・写真学科2年)
泳ぎ疲れました。(笑)レポートは楽しかったです。僕は最初から二人とも死人だと思います。(加藤貴志・演劇学科2年)

まさか海辺の叙景がこんなになると思わずでビックリでした。皆それぞれの意見をもっていてすごい!私は今授業で戯曲分析をやってますが今日意見を言った人にも一緒にやってほしいですね。(渋谷愛・演劇学科2年)

最初のほうの、砂浜に落ちてるビンが男性器の象徴だと先生がいったのを、私もレポートにかいてたのでビックリしました!(佐藤裕恵・演劇学科2年)


今日の授業で一番印象に残ったのは女の「至福」の時のことです。やっぱり私も自分と愛する人の子をみごもったときだと思う。(笠原直美・演劇学科2年)

男のカイパンがさいしょの女のパンツだったことにショックをうけた。(大沢真弓・美術学科1年)

信じられない。こんな解釈の仕方があったなんて。(小谷不允穂・映画学科2年)

【学生の声】 5月24日「マンガ論」

5月24日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声135件中から11件(原文のまま)を以下に紹介します。
_______________________

男性には、そんなに母胎回帰願望というものがあるのか…と思った。女性は、自分そのものが母胎になるので母胎回帰という願望はあまり無いのではないかと思う。(佐藤由季・文芸学科1年)

今日は先生以外の学生の見解が聞けておもしろかったです。母が「つげマンガは深い」と言って、講義を受けたがってました。(笹本薫・文芸学科1年)

「海辺の女景」にはゾクッとした。一番最後のコマはまさに「海辺の女景」だと思った。男は死んでいると思います。寒気のする作品でした。(次田時・写真学科2年)

自分は全く分からないとしか言いようがなかった「海辺の叙景」に、先生が全く考えつかないような解釈を加えててビックリしました。また、みなさんいろんな考えを持ってるんだなと思いました。おもしろかったです。(八幡夏美・演劇学科2年)

ボートのとこにすわってるのが遺影になってるのはすごくびっくりしました。(宮崎敦子・写真学科2年)
泳ぎ疲れました。(笑)レポートは楽しかったです。僕は最初から二人とも死人だと思います。(加藤貴志・演劇学科2年)

まさか海辺の叙景がこんなになると思わずでビックリでした。皆それぞれの意見をもっていてすごい!私は今授業で戯曲分析をやってますが今日意見を言った人にも一緒にやってほしいですね。(渋谷愛・演劇学科2年)

最初のほうの、砂浜に落ちてるビンが男性器の象徴だと先生がいったのを、私もレポートにかいてたのでビックリしました!(佐藤裕恵・演劇学科2年)


今日の授業で一番印象に残ったのは女の「至福」の時のことです。やっぱり私も自分と愛する人の子をみごもったときだと思う。(笠原直美・演劇学科2年)

男のカイパンがさいしょの女のパンツだったことにショックをうけた。(大沢真弓・美術学科1年)

信じられない。こんな解釈の仕方があったなんて。(小谷不允穂・映画学科2年)

2004年5月26日

早坂類の「ルピナス」(「群像」4月号)

彼は死後の世界に魂の存在を認めず、人間の死に復活の可能性を認めなかった。にもかかわらず彼は「何かが自分を殺さなかった」と書いている。〈何か〉とはなんなのだ。彼を電車に跳飛ばさせながら、なお生かさせている〈何か〉とは。彼は人知では計り知れない〈何か〉を感じながら、死後の世界も復活も信じない人知に従っている。それでいながら彼はそのことの矛盾には気づかない。彼は、自分の存在を大きなものとして認めたがっている。しかし彼はその保証をいかなる他人にも求めない。彼は「自分には仕なければならぬ仕事がある」と思っている。その仕事は、ここでははっきりと書かれていないが、おそらく人類の歴史に残るような大きな仕事として考えられている。自分がこの世でなし遂げなければならない使命、それを感じているのは自分であり、自分が思えばそれでよいのである。彼が「何かが自分を殺さなかった」と言う時、その〈何か〉とは自分の存在を超越した存在というより、それもまた自分の中に潜んだ〈何か〉としてとらえられていたような感じがする。彼は世界の事象に眼に見えぬ神秘を感じて畏怖を覚えるような男ではなく、あくまでも自分の力を頼む自惚れ屋である。

 

否、彼は自分自身が「何かが自分を殺さなかった」と感じたわけではない。この言葉は彼が中学の時に習ったロード・クライヴの本の中に書いてあったことだ。彼はこのクライヴの言葉を思い出し「実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした」と書くに止まっている。彼は神秘家ではない。彼は言わば一人の常識人であり、分別や理性的判断を越えた神秘をそのまま認めるようはことはしない。ただ「そんな気もした」だけである。しかし彼が「自分には仕なければならぬ仕事があるのだ」と思っていたことに間違いはない。彼は怪我の後養生にのみ但馬温泉に逗留していたわけではないだろう。〈読むか書くか〉これが彼の仕事である。彼は小説家としての仕事をしなければならない。自分が一命をとどめたのは或る〈何か〉の働きではなく、単なる偶然であったとしても、彼が〈仕なければならぬ仕事〉を深く自覚していたことは言うまでもない。

 「然し妙に自分の心は静まって了った」と彼は続ける。彼は、自分を殺さなかった〈何か〉、人知では量り知れぬ神秘、人間を超越した或る何かを感じて現実から遊離することはない。彼は瞑想に耽るような宗教家のタイプではない。彼は人間は誰もが死んでしまうというその事実を冷徹に認めるだけである。その冷徹に見据えられた〈死〉に彼は〈親しみ〉を感じている。「祖父や母の死骸が傍にある」・・つまり彼にとって〈死〉は〈死骸〉という純粋な〈もの〉であって、それは永遠に滅びることのない魂とか、復活を約束するものではない。死に対して潔い態度と言えるかもしれない。生きてこの世にある者は、死後の世界を知らず、死んで蘇ってきた者を知らない。キリスト教に関心のある者で、イエスが起こした前後未曾有の一大奇跡、死後四日もたって死臭を放っていたラザロの復活を知らない者はいない。しかし、その復活したラザロも今日の世に生き続けているわけではない。イエスによって蘇生して来たラザロもまた再び死の淵へと呑み込まれて行ったのだ。元内村鑑三の弟子(なまぬるい基督信徒)であった志賀直哉は、小説の中で〈罪〉を〈罰〉を〈復活〉を真っ正面から取り上げることはなかった。イエスの言葉「わたしは命であり、復活である。生きて私を信ずる者は永遠に死ぬことはない」を文字通り信ずるキリスト者にとって、死はもちろん単なる死ではない。〈姦淫の罪〉に躓いて内村鑑三の元を離れた志賀直哉は、以後〈罪〉や〈魂の永世〉について掘り下げることはなかった。彼は死は死でしかないという考え、先に死んだ者の死骸の傍に自分の死骸が置かれるだけだという考えを〈淋しい〉と感じるが、しかし同時に「それ程に自分を恐怖させない考えだった」とも書いている。

早坂類の「ルピナス」(「群像」4月号)

彼は死後の世界に魂の存在を認めず、人間の死に復活の可能性を認めなかった。にもかかわらず彼は「何かが自分を殺さなかった」と書いている。〈何か〉とはなんなのだ。彼を電車に跳飛ばさせながら、なお生かさせている〈何か〉とは。彼は人知では計り知れない〈何か〉を感じながら、死後の世界も復活も信じない人知に従っている。それでいながら彼はそのことの矛盾には気づかない。彼は、自分の存在を大きなものとして認めたがっている。しかし彼はその保証をいかなる他人にも求めない。彼は「自分には仕なければならぬ仕事がある」と思っている。その仕事は、ここでははっきりと書かれていないが、おそらく人類の歴史に残るような大きな仕事として考えられている。自分がこの世でなし遂げなければならない使命、それを感じているのは自分であり、自分が思えばそれでよいのである。彼が「何かが自分を殺さなかった」と言う時、その〈何か〉とは自分の存在を超越した存在というより、それもまた自分の中に潜んだ〈何か〉としてとらえられていたような感じがする。彼は世界の事象に眼に見えぬ神秘を感じて畏怖を覚えるような男ではなく、あくまでも自分の力を頼む自惚れ屋である。

 

否、彼は自分自身が「何かが自分を殺さなかった」と感じたわけではない。この言葉は彼が中学の時に習ったロード・クライヴの本の中に書いてあったことだ。彼はこのクライヴの言葉を思い出し「実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした」と書くに止まっている。彼は神秘家ではない。彼は言わば一人の常識人であり、分別や理性的判断を越えた神秘をそのまま認めるようはことはしない。ただ「そんな気もした」だけである。しかし彼が「自分には仕なければならぬ仕事があるのだ」と思っていたことに間違いはない。彼は怪我の後養生にのみ但馬温泉に逗留していたわけではないだろう。〈読むか書くか〉これが彼の仕事である。彼は小説家としての仕事をしなければならない。自分が一命をとどめたのは或る〈何か〉の働きではなく、単なる偶然であったとしても、彼が〈仕なければならぬ仕事〉を深く自覚していたことは言うまでもない。

 「然し妙に自分の心は静まって了った」と彼は続ける。彼は、自分を殺さなかった〈何か〉、人知では量り知れぬ神秘、人間を超越した或る何かを感じて現実から遊離することはない。彼は瞑想に耽るような宗教家のタイプではない。彼は人間は誰もが死んでしまうというその事実を冷徹に認めるだけである。その冷徹に見据えられた〈死〉に彼は〈親しみ〉を感じている。「祖父や母の死骸が傍にある」・・つまり彼にとって〈死〉は〈死骸〉という純粋な〈もの〉であって、それは永遠に滅びることのない魂とか、復活を約束するものではない。死に対して潔い態度と言えるかもしれない。生きてこの世にある者は、死後の世界を知らず、死んで蘇ってきた者を知らない。キリスト教に関心のある者で、イエスが起こした前後未曾有の一大奇跡、死後四日もたって死臭を放っていたラザロの復活を知らない者はいない。しかし、その復活したラザロも今日の世に生き続けているわけではない。イエスによって蘇生して来たラザロもまた再び死の淵へと呑み込まれて行ったのだ。元内村鑑三の弟子(なまぬるい基督信徒)であった志賀直哉は、小説の中で〈罪〉を〈罰〉を〈復活〉を真っ正面から取り上げることはなかった。イエスの言葉「わたしは命であり、復活である。生きて私を信ずる者は永遠に死ぬことはない」を文字通り信ずるキリスト者にとって、死はもちろん単なる死ではない。〈姦淫の罪〉に躓いて内村鑑三の元を離れた志賀直哉は、以後〈罪〉や〈魂の永世〉について掘り下げることはなかった。彼は死は死でしかないという考え、先に死んだ者の死骸の傍に自分の死骸が置かれるだけだという考えを〈淋しい〉と感じるが、しかし同時に「それ程に自分を恐怖させない考えだった」とも書いている。

文芸時評

時評家は、とにかく小説を読まなければならない。その小説がとりあげるに値するかどうか、読んでみないことには判断がつかない。

なぜこんな小説とも言えないような駄作が巻頭に載っているのかと、腹立たしくなることもある。しかも、その作者が新人賞や芥川賞を受賞している〈作家〉だというのであるからあきれる。

文芸誌の背を摘んで、五、六回振るとそこに印刷されている文字がどしどし落ちていく、そんな光景すら思い浮かべた。
 

佐野眞一の『人を覗にいく』(ちくま文庫)の中に「近頃の若手の作品には、舶来の文学理論をまぶしたスナック菓子の軽さと猪口才さしか感じられなかった」云々とある。まさに〈猪口才な奴〉がうろちょろしている感は否めない。〈純文学作品〉など売れないのが当たり前なのだから、売れる〈純文学〉を書こう、書かせようなどという猪口才な輩はさっさと商売替えをした方がいい問題は、見るからに猪口才な奴と違って、いつも六、七十点クラスの作品を書いている小説家である。敢えて、作品名も作家名もあげないが、こういった小説家に共通しているのは、〈無限〉〈永遠〉を見つめる眼差しの欠如という、作家としては致命的な弱点を抱えていながらも、達者にストーリーを展開していることだ。人物たちもそれなりに気のきいたセリフを発している。しかし、それは読者の心に響かない〈おしゃべり〉の次元に留まっている。こういった不可ではないが、特別にすばらしくもない、優等生的小説を読む暇があるなら、寝そべってテレビドラマでも見ていた方がましである。南木佳士は『ダイヤモンドダスト』のあとがきで「足が大地に根づき、厚い岩を割る。そんなところに見えてくる人と風景を書きたい」と記している。わたしが小説に求めているのは、南木がここで言う〈人と風景〉であり、頭だけで構築したような作り物の人物や風景ではない。どのように人間は生きているのか、どのように人間は死んでいくのか、それを無限の底を見極めるような眼差しを持って表現するとき、はじめて作家はひとの心を震わすことができる。

佐藤洋二郎の「箱根心中」(新潮)は、〈男〉と〈おんな〉の出会い、同棲、そして心中に至るまでが淡々と描かれる。〈男〉はかつて投資顧問会社に勤め、大手の証券会社の人物と組んで利鞘を稼いでいた。五年前、バブルがはじけ、資金繰りに困った仲間の男が彼の金を着服する。それを知った顧客のキャバレー店主が〈男〉を監禁し、六割安の労賃で働かせる。数時間前、〈男〉は店主から二十万の金を借り、〈おんな〉の待つ部屋へと向かう。〈男〉は夜の街を歩きながら、キャバレー嬢にからかわれたこと、五十近くの売春婦と寝たこと、じっと自分の帰りを待っている〈おんな〉と初めて会った頃を思い出したりする。例によって佐藤洋二郎の小説は、主人公の〈現在〉に様々なレベルでの〈過去〉が挿入される。〈男〉の生をかろうじて支えているのは過ぎ去った過去の思い出であり、彼の〈将来〉は閉ざされている。〈男〉にはやがて呑み込まれていくであろう〈死〉という未来しか残されていない。「死ぬときは一緒」という同じ思いに溶けた〈男〉と〈おんな〉の濡れ場は、死とエロスの濃厚な臭いを発散させている。腹の中央から性器にむかって蚯蚓腫れの傷跡がある〈おんな〉、おんなのくるぶしを握って両足を広げ、じっと脚の付け根を見続けながら、声もたてずに泣いている〈男〉・・・二人は各々のどうしようもない過去と孤独を抱え込みながら、心中によって〈二人でひとり〉の至福を得ようとする。彼らは生に絶望しているというのではない、死に望みを託しているのでもない。重い過去も、現在の生活も、富士山の見える所で心中する決意をした二人には、もうどうでもいいことだ。この小説には、人間の孤独やせつなさ、善悪を超越した男と女のあり様が、骨の髄を抉るように描かれていながら、ふしぎと爽やかな透明感に溢れている。抑制の効いた文体が、全編に緊張を与え、読者の想像力を心地よく刺激する。この小説は、佐藤洋二郎文学の一つの頂点を飾るに相応しい作品である。

 湯本香樹実の「西日の町」(文學界)は〈僕〉と〈母〉と、母の父親〈てこじい〉の三人をめぐる物語である。語り手の〈僕〉は現在四十二歳で医科大学に勤務、英語教師の妻がいる。〈僕〉の両親は七歳の時に離婚。以来〈僕〉は〈母〉との二人きりの生活を送る。〈僕〉が十歳のとき、とつぜん〈てこじい〉が現れる。〈てこじい〉は風来坊の寅さんよろしく、とつぜん家を出たかと思うと、また予期せぬ時に戻ってきたりする。〈母〉は〈てこじい〉に対して一種独特のアンビヴァレントな感情を抱いて、夜更けに爪を切る。作者は、〈母〉と〈てこじい〉のこじれた関係を、十歳の〈僕〉の視点から鮮明に浮上させている。〈母〉が妊娠して、〈僕〉の弟を孕んだときの〈てこじい〉とのやりとり、堕胎、〈てこじい〉がとつぜん姿をくらました翌日、たくさんの赤貝をバケツに入れて帰り、三人して腹いっぱい食べたときのことなど、この小説には〈深刻〉をさらっと描いて、読者の心に深い感動を与える場面が随所にある。〈母〉と〈僕〉の間の〈愛〉、〈母〉と〈てこじい〉の間の〈愛〉、それを小説家は死んでも〈愛〉などという言葉で表現してはならない。〈母〉が夜更けに爪を切り、〈僕〉もまた七歳まで一緒に暮らしていた父親が三十年ぶりに入院先から電話をかけてきた、その夜に爪を切る。小説は何もかもを描く必要はない。省略された空白に、もう一つのドラマが隠されており、読者はその描かれざる場面をも味わっている。〈てこじい〉が息を引き取る場面は戦慄的である。「長いこと、お疲れさま」と、そっと呟く〈母〉の言葉に胸が詰まる。物語も終わり近く、作者は「東京での生活が落ちついてしばらくすると、母は、ときどき夜に爪を切るようになった」とさりげなく記している。作者は〈爪を切る〉という行為の多重性を指示しながら、いっさいの説明を加えない。舞台となった北九州のKという〈西日の町〉は、紛れもなく普遍的な〈西日の町〉となった。読者は「夢見の悪いことをたくさんしてきた」という〈てこじい〉を、「寒い谷底から吹き上げてくる風みたいな声」を出して悪夢のような悍馬を調教していた〈てこじい〉を、家畜の豚を納屋の裏で密殺し手際よく解体していた〈てこじい〉を、怪我をした左の人指し指でモールス信号みたいに畳をトントン叩いていた〈てこじい〉を、堕胎した娘の体を気づかって赤貝をバケツ一杯採ってきた〈てこじい〉を忘れることはないだろう。多くの謎を残して死んだ〈てこじい〉は、〈母〉や〈僕〉だけでなく、読者の〈喚びだし〉をも拒んではいない。解き得ない〈謎〉を前にして、一歩も退かず、〈謎〉を〈謎〉として描きだすこと、それが小説家に課せられた使命である。

紙数が尽きたので、今回詳しく語ることはできないが、早坂類の「ルピナス」(群像)には、背筋が冷たくなるような感動を覚えた。この小説には、なにものかに作品を書かされている者の天才性を感じた。早坂の研ぎ澄まされた感性と想像力は、狂気すれすれの地点で小説創造を果たしている。人間の精神世界の摩訶不思議さ、人間と人間の宿命的な出会いと別離、そして奇跡的な再会、天才的な人間の生と死のドラマ、自然の荘厳で神秘的な姿……久しぶりに小説世界の中に引きずりこまれる快楽を堪能した。

文芸時評

時評家は、とにかく小説を読まなければならない。その小説がとりあげるに値するかどうか、読んでみないことには判断がつかない。

なぜこんな小説とも言えないような駄作が巻頭に載っているのかと、腹立たしくなることもある。しかも、その作者が新人賞や芥川賞を受賞している〈作家〉だというのであるからあきれる。

文芸誌の背を摘んで、五、六回振るとそこに印刷されている文字がどしどし落ちていく、そんな光景すら思い浮かべた。
 

佐野眞一の『人を覗にいく』(ちくま文庫)の中に「近頃の若手の作品には、舶来の文学理論をまぶしたスナック菓子の軽さと猪口才さしか感じられなかった」云々とある。まさに〈猪口才な奴〉がうろちょろしている感は否めない。〈純文学作品〉など売れないのが当たり前なのだから、売れる〈純文学〉を書こう、書かせようなどという猪口才な輩はさっさと商売替えをした方がいい問題は、見るからに猪口才な奴と違って、いつも六、七十点クラスの作品を書いている小説家である。敢えて、作品名も作家名もあげないが、こういった小説家に共通しているのは、〈無限〉〈永遠〉を見つめる眼差しの欠如という、作家としては致命的な弱点を抱えていながらも、達者にストーリーを展開していることだ。人物たちもそれなりに気のきいたセリフを発している。しかし、それは読者の心に響かない〈おしゃべり〉の次元に留まっている。こういった不可ではないが、特別にすばらしくもない、優等生的小説を読む暇があるなら、寝そべってテレビドラマでも見ていた方がましである。南木佳士は『ダイヤモンドダスト』のあとがきで「足が大地に根づき、厚い岩を割る。そんなところに見えてくる人と風景を書きたい」と記している。わたしが小説に求めているのは、南木がここで言う〈人と風景〉であり、頭だけで構築したような作り物の人物や風景ではない。どのように人間は生きているのか、どのように人間は死んでいくのか、それを無限の底を見極めるような眼差しを持って表現するとき、はじめて作家はひとの心を震わすことができる。

佐藤洋二郎の「箱根心中」(新潮)は、〈男〉と〈おんな〉の出会い、同棲、そして心中に至るまでが淡々と描かれる。〈男〉はかつて投資顧問会社に勤め、大手の証券会社の人物と組んで利鞘を稼いでいた。五年前、バブルがはじけ、資金繰りに困った仲間の男が彼の金を着服する。それを知った顧客のキャバレー店主が〈男〉を監禁し、六割安の労賃で働かせる。数時間前、〈男〉は店主から二十万の金を借り、〈おんな〉の待つ部屋へと向かう。〈男〉は夜の街を歩きながら、キャバレー嬢にからかわれたこと、五十近くの売春婦と寝たこと、じっと自分の帰りを待っている〈おんな〉と初めて会った頃を思い出したりする。例によって佐藤洋二郎の小説は、主人公の〈現在〉に様々なレベルでの〈過去〉が挿入される。〈男〉の生をかろうじて支えているのは過ぎ去った過去の思い出であり、彼の〈将来〉は閉ざされている。〈男〉にはやがて呑み込まれていくであろう〈死〉という未来しか残されていない。「死ぬときは一緒」という同じ思いに溶けた〈男〉と〈おんな〉の濡れ場は、死とエロスの濃厚な臭いを発散させている。腹の中央から性器にむかって蚯蚓腫れの傷跡がある〈おんな〉、おんなのくるぶしを握って両足を広げ、じっと脚の付け根を見続けながら、声もたてずに泣いている〈男〉・・・二人は各々のどうしようもない過去と孤独を抱え込みながら、心中によって〈二人でひとり〉の至福を得ようとする。彼らは生に絶望しているというのではない、死に望みを託しているのでもない。重い過去も、現在の生活も、富士山の見える所で心中する決意をした二人には、もうどうでもいいことだ。この小説には、人間の孤独やせつなさ、善悪を超越した男と女のあり様が、骨の髄を抉るように描かれていながら、ふしぎと爽やかな透明感に溢れている。抑制の効いた文体が、全編に緊張を与え、読者の想像力を心地よく刺激する。この小説は、佐藤洋二郎文学の一つの頂点を飾るに相応しい作品である。

 湯本香樹実の「西日の町」(文學界)は〈僕〉と〈母〉と、母の父親〈てこじい〉の三人をめぐる物語である。語り手の〈僕〉は現在四十二歳で医科大学に勤務、英語教師の妻がいる。〈僕〉の両親は七歳の時に離婚。以来〈僕〉は〈母〉との二人きりの生活を送る。〈僕〉が十歳のとき、とつぜん〈てこじい〉が現れる。〈てこじい〉は風来坊の寅さんよろしく、とつぜん家を出たかと思うと、また予期せぬ時に戻ってきたりする。〈母〉は〈てこじい〉に対して一種独特のアンビヴァレントな感情を抱いて、夜更けに爪を切る。作者は、〈母〉と〈てこじい〉のこじれた関係を、十歳の〈僕〉の視点から鮮明に浮上させている。〈母〉が妊娠して、〈僕〉の弟を孕んだときの〈てこじい〉とのやりとり、堕胎、〈てこじい〉がとつぜん姿をくらました翌日、たくさんの赤貝をバケツに入れて帰り、三人して腹いっぱい食べたときのことなど、この小説には〈深刻〉をさらっと描いて、読者の心に深い感動を与える場面が随所にある。〈母〉と〈僕〉の間の〈愛〉、〈母〉と〈てこじい〉の間の〈愛〉、それを小説家は死んでも〈愛〉などという言葉で表現してはならない。〈母〉が夜更けに爪を切り、〈僕〉もまた七歳まで一緒に暮らしていた父親が三十年ぶりに入院先から電話をかけてきた、その夜に爪を切る。小説は何もかもを描く必要はない。省略された空白に、もう一つのドラマが隠されており、読者はその描かれざる場面をも味わっている。〈てこじい〉が息を引き取る場面は戦慄的である。「長いこと、お疲れさま」と、そっと呟く〈母〉の言葉に胸が詰まる。物語も終わり近く、作者は「東京での生活が落ちついてしばらくすると、母は、ときどき夜に爪を切るようになった」とさりげなく記している。作者は〈爪を切る〉という行為の多重性を指示しながら、いっさいの説明を加えない。舞台となった北九州のKという〈西日の町〉は、紛れもなく普遍的な〈西日の町〉となった。読者は「夢見の悪いことをたくさんしてきた」という〈てこじい〉を、「寒い谷底から吹き上げてくる風みたいな声」を出して悪夢のような悍馬を調教していた〈てこじい〉を、家畜の豚を納屋の裏で密殺し手際よく解体していた〈てこじい〉を、怪我をした左の人指し指でモールス信号みたいに畳をトントン叩いていた〈てこじい〉を、堕胎した娘の体を気づかって赤貝をバケツ一杯採ってきた〈てこじい〉を忘れることはないだろう。多くの謎を残して死んだ〈てこじい〉は、〈母〉や〈僕〉だけでなく、読者の〈喚びだし〉をも拒んではいない。解き得ない〈謎〉を前にして、一歩も退かず、〈謎〉を〈謎〉として描きだすこと、それが小説家に課せられた使命である。

紙数が尽きたので、今回詳しく語ることはできないが、早坂類の「ルピナス」(群像)には、背筋が冷たくなるような感動を覚えた。この小説には、なにものかに作品を書かされている者の天才性を感じた。早坂の研ぎ澄まされた感性と想像力は、狂気すれすれの地点で小説創造を果たしている。人間の精神世界の摩訶不思議さ、人間と人間の宿命的な出会いと別離、そして奇跡的な再会、天才的な人間の生と死のドラマ、自然の荘厳で神秘的な姿……久しぶりに小説世界の中に引きずりこまれる快楽を堪能した。

2004年5月27日

つげ義春さんとお会いして(1)

2003年8月10日(日曜)  調布駅前、喫茶「シャノアール」での三時間


八月八日、昼頃、つげ義春氏に『つげ義春を読め』(鳥影社 二〇〇三年八月)を送るために準備する。大きめの封筒に一冊入れ、ガムテープで封をする。宅配便で送ろうとしたのだが、つげ氏の電話番号が分からない。文芸年鑑を探すがこういうときに限って見つからない。イライラしながら、そうだ104にかけようと思いつき、さっそくかける。

「あ、もしもし清水ですが、『つげ義春を読め』ができましたので一冊さしあげたいのですが、ご都合はいかがでしょうか」
「え、き、今日ですか」
「よければ、直接お渡ししたいのですが、そちらへはどのように行けばいいんでしょうか」
「ええと、新宿から、京王線に乗り換えて、特急に乗りまして、各駅も出ていますけれど、途中、特急に追い越されますから、必ず各駅電車でなく、特急に乗ってください、調布駅に着いたら、進行方向に向かって後ろの方の出口に出て、進行方向の右側に出てください、するとすぐに電器屋の店があって、その二階にシャノアールという喫茶店がありますから、そこで会いましょう」
「分かりました、ぼくは今我孫子にいますから、これから出て、新宿へは二時頃着くと思いますので、新宿からまた電話します」
「うちからシャノアールまで自転車で五分くらいですけど、雨が降ったりすると歩いて二十分かかりますので……電車は必ず特急に乗って下さい」

宅配便で送るつもりが、急遽、つげ義春氏に直接会うことになった。今日は目覚めてから、ずっとつげ氏に直接会って渡した方がいいような気がしていたので、ああ、その通りになったなと自然に思った。

 

新宿駅に着いた、京王線ホームにたどり着くと、丁度14時ぴったりの特急があったので、さっそくそれに乗り込み、社内から携帯電話でつげ氏に連絡する。調布駅についてトイレに行きたくなる。トイレを探すと、それは進行方向の前の方にあり、仕方なく前に歩く。トイレを示す文字は書かれてあるのだが、どうもそれは駅の外にあるように見える。駅員にシャノアールをある場所を念のために訊くと、若い駅員は改札を左にでると交番があるからそこで聞いたらいいと言う。改札を出て、まずはトイレを探すが、トイレらしきものは見当たらない。どうやらトイレは改札脇の狭い通路を渡った所にあったらしい。時間もないので、交番に寄り、シャノアールを尋ねると、すぐに教えてくれた。歩いて一分もたたないうちに電気店があり、その二階に喫茶シャノアールがあった。階段を上り、ドアを開けると、五六メートル先の正面の席に、すでにつげ氏は座っていた。つげ氏の顔はすでに写真で知っているのですぐ分かった。軽く会釈して席につき、簡単に自己紹介する。バッグの中から『つげ義春を読め』を取り出し、つげ氏に渡す。つげ氏はさっそくペラペラと中身を見る。わたしはアイスコーヒーを頼むとすぐにトイレにかけ込んだ。戻ってくるときも、つげ氏はしげしげと本を覗いていた。

 話ははずんだ。初対面とはいえ、ここ十年の間、断続的につげ義春論を書きつづけていたので、なんか密度の濃いつきあいをしてきた友人のような気さえしてくる。顔はまさにゲンセンカン主人である。ひげの延び具合が、絶妙である。今日はたまたま体調が良いということであった。時間を心配したが、つげ氏はいっこうに疲れた様子を見せない。講談社から初期短編集四冊が出ているので、その点に触れると
「あれは初め全集を出すという話だったんですよ。けど断ったんです。出したくない作品もありますし。それに全集をだすとなると、時間をとられるし、息子の世話もあるので出来ないんです」
「それでは自分の出したい作品だけで、全集出したらどうですか」
「そうすると筑摩書房で出したのと同じになってしまうんで……」
「あの筑摩の全集、評判悪かったですね。近藤さんも、あの全集は酸性紙を使っているのでだめだと言ってましたが。つげさんの本、今度フランスやアメリカでも翻訳されるそうで、いよいよ世界に進出ですね」
「フランスは、ぼくの知っている人が訳すので許可したんですが、アメリカと韓国からの話は断りました」
「もったいないですね。つげさんの作品はフランスやドイツでは評判になると思いますね」
「アメリカの場合、どう訳されるか分からないですし、少し不安ですね」
「それなら知っている人に訳させたらどうですか。ぼくの弟子にも博士課程で勉強している優秀な人もいますし、そういう人に訳させていろいろ話ながらやったらいいんですよ」
「二人で訳せばいいのができるかもしれませんね」「昔、ぼくが二十歳の頃、ドストエフスキー研究家の小沼文彦さんの所へ出入りしていたんですが、彼がドストエフスキーを訳した頃はいろいろと言われたそうです。すでに米川正夫訳があるのになぜ新しく訳すのか、といった批判があったそうですが、小沼さんが次々にドストエフスキーを訳されてからはそういうことを言うひとはいなくなったそうです。いろいろあってもいいんじゃないですか。つげさんの作品の訳もいろいろな人が訳して、誰それ訳つげ義春ということでいいんですよ」

つげ義春さんとお会いして(2)

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わたしがつげ義春氏に会ったら一番聞きたかったことは、彼がいつどこでドストエフスキーの作品を読んだのかという点であった。この点に関しては、電話や手紙で問い合わせればよいようなものの、わたしはこの点についてはぜひ直接会った時に訊こうと前々から思っていた。 「つげさんはいつ頃ドストエフスキーの作品を読んだんでしょうか」 「ぼくはドストエフスキーはほとんど読んでいないんですよ。『貧しき人々』は読みましたが、『罪と罰』は半分ぐらいまでですね。江戸川乱歩をよく読んでいたんで、ポウは全集を揃えて読みました。『罪と罰』は手塚治虫さんの漫画で読みましたね。全部読まなくても、内容はだいたい知ってました」

つげ義春氏には『罪と罰』というタイトルの作品があり、ドストエフスキーの『罪と罰』は絶対に読んでいるだろうと踏んでいたのだが、あっさりとはずされた。手塚治虫の『罪と罰』は子供向けに描かれた漫画でドストエフスキーのものとは比べ物にならない。わたしは手塚治虫は偉大な秀才とは思うが、今まで天才だと思ったことはない。


「天才はつげ義春、手塚治虫は秀才ですね。つげさんの作品はつげさん独自のものですからね。ぼくはドストエフスキー、宮沢賢治、つげ義春と批評して来ましたが、みんな天才です。つげさんの作品がフランスやドイツで読まれるということはたいへんいいことだと思いますね。『無能の人』とかは日本、東洋を強く感じさせる作品ですし、つげさんの作品が今後、世界のいろいろな所で読まれるようになることはいいことですよ」

2004年5月28日

つげ義春さんとお会いして(3)

人見知りがはげしいということを聞いていたが、つげさんはよくいろいろなことを話してくれた。これなら大学の「マンガ論」で特別講座に来てもらえるのではないかと思い

「調布から所沢までは遠いですか。夏休みあけに、特別講座に来て学生さんに何か話していただけませんか。講演でなくても、このような対談形式でも結構なんですが」

「……妻が死んで四年半になりますが、それ以来新宿には出掛けていません。今日はわざわざこんな遠くまで来てもらって申し訳ありません」
「江古田はどうですか。江古田だったら近いんじゃないですか」
「昔、漫画を描いている後輩が江古田にいて、江古田には行ったことがありますね」「何年ぐらい前なんですか」「四十年ぐらい前ですかね」

つげさんは、今の生活を自然に楽しんでいるようにも見えたが、本当のところは分からない。つげさんと居ると、ゆったりとした時間のなかにつかっている感じである。

「『チーコ』の最終コマは、これは翌日ということですか」
「そうですね、明るいですからね」
「ぼくは初め、この最終コマは奥さんが帰ってきたその日の夜だと思っていたんですよ。このスコップを持って庭を探す場面は、帰って直ぐのことだと思ったんですね。ですから、この最終コマは本来真っ黒にベタ塗りされるべきコマで、白っぽく描かれているのはマンガの一つの描法と理解していたんですが……、まあ、このように読むとこのように解釈できるということですが。この佐渡人形が黒く描かれているコマですが、これは下が狭くなっているので、読者の視点は漫画家の青年とチーコが戯れている所に集中して、下に描かれているこの不気味な佐渡人形を見落としてしまうんですね。そこで別に下を広くしたコマ絵を作ってみましたが、こうすると読者の目線は否応もなくこのベタ塗りされた佐渡人形を見ることになるんですね。まあ、こんなことを授業で言いますと、学生さんたちはオオッなんてびっくりしています。ところで『チーコ』とか『別離』は、あれ本当にあったことなんですか」
「ほとんどあったことですね」
「『チーコ』で奥さんが、電車で帰って来なかったことがありますね。あの夜、実は奥さんは他の男と浮気したと思うか、と学生に聞くと半分ぐらいはそうだと言いますね。実際はどうだったんですか」
「そんなことはありませんね」
「そうですか。それじゃ、奥さんが浮気したというのは、あの最終コマの後ということですか」「『別離』で女が浮気しますが、シェパードの方じゃないですね」
「あの本屋によく来ていたという学生ですね、冴えない顔した……」
「そうですね」
「つげさんは他の女性と関係したということはなかったんですか」
「なかったですね、描くことに精一杯でしたからね」

この言葉を聞いた時になんか胸にジーンと来るものがあった。

「『チーコ』で奥さんが駅の階段を昇っていく場面がありますが、このタタタタという昇り方は、絶対にまた戻ってくる昇り方ですね。どんなに男のことを怨んで、二度と戻ってなんかくるもんか、と思っても、結局戻ってきてしまう女の階段の昇り方ですよね。つげさんはどこまで意識して描かれたんですか」
「いや、そこまでは意識していなかったですね」
「作者が、自分の作品をすべて予め分かっていて描くというのは、かえって駄目ですね」
「そうですね」
「作者が無意識のうちに描いて、結果として、言われてみればそうだな、というのがいいんですよね。作者が自分の作品についてすべて分かっている、というのは、パズルと同じで予め答えが用意されているわけですからつまらないですね。批評は作者にも分からないことを発見させるということですから」
 『つげ義春を読め』の  頁、「『盲刃』を読む」の所を開き

「このタイトルはなんとお読みするんですか」
「もうじん」
「この楠木という男、なかなか曲者ですね」
「そうですね」
「盲の剣士が武蔵に殺された後、この楠木、奥さんを妾かなんかにしそうですね」・・  頁、『運命』の浪人とその妻の顔を見ながら「死を覚悟したこの二人の顔は実に美しいですね。特にこの男、ドングリ眼にダンゴ鼻でこんなに美しい顔をしていますからね」

話ははずみ、時間もそうとう経った。

「お時間は大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
「それではもう一杯コーヒーを頼みましょうか」
「はい」コーヒーを頼み、再び話を続ける。
「写真を撮らせてもらえますか」
「ここは写真は駄目なんです」
「それでは帰りに外でお願いします」

午後二時半から五時半までの三時間、いろいろな話をしたが、やはりつげ氏の漫画に関して、そのディティールにまで踏み込んだ話をしたいという気持ちが起こった。

「特装本が出た時に、また担当者と来ますので宜しくお願いします。今日はありがとうございました」

外に出ると、つげさんは愛用の自転車の籠の中に『つげ義春を読め』と『「マンガ論」へようこそ』を入れた。わたしは記念に写真を三枚ほど撮らせていただいた。自転車に乗って帰っていくつげさんの姿は、まるで『    』の中の主人公のようであった。わたしは、束の間、つげ漫画の世界に居たのではないかと思ったほどだ。久しぶりにゆったりとした時間を過ごさせてもらい、何か得した気分で、わたしは調布駅から新宿へと向かった。

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