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チェーホフの『退屈な話』を授業する(3)
2004年1月20日(火曜)
エーミイはラ・ベシエール家でのパーティ会場から一人抜け出して、トム・ブラウンがいつもいる酒場へと駆けつける。しかしもうそこにはトム・ブラウンはいない。彼はすでに部隊に戻っている。エーミイはあたりを見回し、そしてトム・ブラウンが小刀でテーブルに刻んだ自分の名前のイニシャルを見つける。これは決定的ですネ。エーミイはトム・ブラウンの愛を確信し、彼の後を追います。画面は変換して、眼前に広大な砂漠が広がっています。トム・ブラウンの所属する外人部隊の兵士たちが行軍を開始しています。
いいですか、砂漠の地平線に行軍の兵士たちが徐々に消えていきます。先頭の兵士が打つ太鼓の音がトントコトン トントコトンと聞こえています。砂漠には激しい風が吹きまくっています。その光景をエーミイが凝っと見つめています。この時のマレーネ・デートリッヒの表情が抜群ですネ、まったくしびれてしまいますヨ。行軍の兵士たちが地平線の彼方に消えた後、今度は彼らを追っていく一群の女たちが砂漠に現れます。彼女たちは兵士たちの女ですネ、惚れた男と運命を共にする女たちです。彼女たちに何の迷いもありませんネ。彼女たちが激しい風に煽られながら、まさに砂漠に向かって一歩一歩足を運んでいく光景は感動的です。観る者の心を揺さぶります。なにしろ彼女たちもまた捨て身ですからネ。生も死も共にする、黙って後をついていく、この姿には覚悟を決めた強い女の意志が伝わってきます。単なる追従じゃありません。そんな光景に感動はありませんからネ。
それで、こういった一連の光景をエーミイは後方からずっと観ているわけです。その沈黙の顔は美しい、あまりに美しい。ところで、この映画の監督は、このエーミイをさらに後方から黙って見ているラ・ベシエールの顔も映し出しています。その顔もまた美しいですネ。彼は自分が愛し求婚した女エーミイが地平線の彼方に消えていった兵士トム・ブラウンをとるのか、それとも自分のところへと戻ってくるのか、ただ黙って見ているわけです。おそらく名代のプレイボーイであったラ・ベシエールにとって生涯ではじめての、女をめぐっての緊張の時であったのではないでしょうか。
エーミイはしばし立ち尽くします。いったいエーミイはどちらを選ぶのか。観客も緊張します。そしてついに決断の時がきます。カメラはエーミイの足元を写します。彼女はゆっくりと靴を脱ぎます。いいですか、さっきから言っているでしょう。女が本当に決断した時はゆっくりと行動するのです。裸足になったエーミイは、その一歩を砂漠に踏みだします。決断は下されたのです。ラ・ベシエールはそれを静かに受け入れます。
エーミイは女の一群の後を、ひとり追っていきます。この光景は壮絶です。今、エーミイが踏みだしたのは〈砂漠〉へ向かっての一歩なんですからネ。若い時の何もかもハッピーなんていう〈恋〉じゃありませんからネ。いいですか、エーミイにとってトム・ブラウンとの〈愛〉は同時に〈砂漠〉なんですよ。砂漠に吹き荒れる激しい風がそのことを端的に語っています。
いいですかシンタロウ君、エーミイ・・一度は自分の人生を捨ててモロッコまでやってきた女が今再び〈愛〉の荒野へとその一歩を踏み出したんですヨ。エーミイの後ろ姿を黙って見つめるラ・ベシエール、彼の顔もホントよかったです。そのラ・ベシエールの後ろ姿を観ているのは誰でしょうか。……カメラマンですね、そのカメラマンの後ろに控えているのが監督ジョセフ・フォン・スタンバーグですネ。その監督の後ろ姿を見ているのはだれでしょう、分かりますかタクサガワノヴィチ、……それは批評家清水正です。清水正の後ろ姿を見ているのが、砂漠の地平線に消えていった外人部隊の兵士たちですネ。要す
るに円環しているんです。
さて、ここで再び『退屈な話』の最終場面に戻ります。別離を決意したカーチャは、ニコライ・ステパーノヴィチが自分の去りゆく姿を目で追っていることを知っています。しかしカーチャは振り返らなかった。当たり前です、さっきも言ったように一度別離を決定した女は振り返りません。カーチャはひとり〈コーカサス〉へ向けて出立します。問題はその〈コーカサス〉が、エーミイが一歩を踏みだしたその砂漠よりも荒涼とした、微塵の希望もない〈死の荒野〉であったということです。ニコライ・ステパーノヴィチ一人が死
んでいくわけじゃないんです。泣くことをやめた、助けを断念したカーチャもまた〈死〉へと踏みだしていったんです。わたしは胸が震えましたネ。人間は希望がなければ生きていけない。なぜニコライ・ステパーノヴィチは〈わが宝〉カーチャを失ってしまったんだろう。〈わが宝〉を失った孤独は、〈死〉の孤独よりも孤独だ。この孤独が小説を読みおわったときに襲ってきたんですネ。……お、時間か。ちょうどぴったりだ。今日はこれでおしまい。
2004年01月19日
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