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チェーホフの『退屈な話』を授業する(1)
-つげ義春の『チーコ』、スタンバーグの『モロッコ』と関連づけて-
今日はチェーホフの『退屈な話』について話すゾ。今までずっとドストエフスキーの話をしてきたが、とにかく今日はチェーホフ。前に志賀直哉とドストエフスキーの話をしたが、志賀直哉は現代に蘇ることはまずないと思うが、チェーホフは蘇るナ、絶対に。このあいだ映画『小犬をつれた貴婦人』について話した時に、あのヤルタの海岸に打ち寄せられた空き瓶についてふれたよネ、覚えているかナ。現実に生きる人間の象徴のような気がするネ、あの空き瓶には。穏やかな波間に浮かぶあの一本の空き瓶……沈みもしないが、飛びだすわけでもない。死んでもいないが、しかし決して生きてもいない・・わたしはそんな現代人の生存を〈空き瓶の実存〉と名付けたわけサ。もし単なる〈空き瓶〉だったらサ、ただ存在しているだけ。しかし人間だったらネ、いちおう誰でも、「私はなんで生きているのか?」とか考えるよネ。だから〈空き瓶〉の後に〈実存〉を付けたということ、分かったネ。
今日、たまたまチェーホフ論のあとがきを書きおえたんだ。今年はチェーホフの没後百年でネ、その記念にチェーホフ論を出そうと思って去年の九月から毎日書き進めてきたんです。『小犬をつれた貴婦人』『かわいい女』『六号室』『黒衣の僧』って批評してきてネ、昨日『退屈な話』について書きおえて、今日は江古田のシャノアールで「あとがき」を書いて、それから大学に来たってわけダ。それで新鮮なうちに話しておこうと思ってネ、今日はまず『退屈な話』について話す。
『退屈な話』はロシア語で『Скучная история』といって、скучнаяはскучныйの女性形で「退屈な」とか「詰まらない」とか「面白くない」とかいう意味がある。今回、わたしが批評するにあたってテキストにしたのは池田健太郎の訳で『わびしい話』となっている。彼はскучнаяを「わびしい」と訳したわけだけど
、わたしは敢えて「退屈な」にした。なにしろチェーホフはかなりイロニーのきいた小説家として知られているように、自分の書いた「詰まらない話」「退屈な話」が実に「面白い話」、少しも「退屈しない話」であるということを証明したかったわけだからネ、はじめから「わびしい話」なんていうように訳したら、そのまんまになってしまうということです。
さて、今日は『退屈な話』のすべてを語るつもりはない。まず、今日はつげ義春の『チーコ』について話します。『チーコ』については「マンガ論」や「雑誌研究」の授業でもとりあげたので、すでにわたしの話を聞いたひともいるでしょう。聞いたことのあるひと? あれ三人ですか。それじゃ大半のひとが聞いていないのか。『チーコ』を読んだことのあるひと? あれ、ほとんど読んでいないの。それじゃ仕方ない、テキスト持ってきますから、少し待っていて下さい。
〔三分後〕それでは『チーコ』について話します。時間の関係で急ぎます。『チーコ』の奥さんは、一度堕胎した経験があるというのが、わたしの見解です。こういった見解、解釈は、テキストの解体と再構築によってなされます。いいですネ、テキストの解体というのは破壊ではないですヨ、破壊してしまったら復元できませんからネ。奥さんはここで「私いいもの見つけちゃった」と言ってますネ。その時この男、芸術漫画をめざして貧しいながら頑張っている男がですネ、「何を?」って聞き返しています。あ、君〔前列三番目に坐って聞いている女性受講者に〕、この奥さんのセリフを隣のタクサガワノヴィチ〔或る男子学生にわたしがつけたロシア風名前〕に向かって言って下さい。
「私いいもの見つけちゃった」、はいタクサガワノヴィチ答えて下さいヨ。
「何を?」・・なるほどネ。
じゃ今度はハルーナさん、タクサガワノヴィチに向かって奥さんのセリフを言って下さい。タクサガワノヴィチはアドリブでテキストの男のセリフではない、自分の言葉を発して下さいネ。
「私いいもの見つけちゃった」
「だから?」・・なるほどネ、タクサガワノヴィチ、少し冷たくはないかネ。
いいですか。この男は作者つげ義春の青年時代を反映していると見ることができます。
漫画は単なる女子供向けの娯楽、消耗品であってはならない、漫画もまた文学作品のように芸術としての表現でなければならない、まあそんなふうに真剣に漫画について考えていたことがつげさんにもあったわけです。尤も、こんなことをつげさんに確かめたら「べつにどうでもいいんですが……」なんて言われるでしょうがネ。
男は自分に稼ぎがないんで、奥さん(まあ、二人は結婚しているのか、単に同棲しているのかはっきりとは書かれていませんが、紛らわしいのでここでは奥さんと言っておきますネ)に水商売の仕事をさせているわけです。男は自分の仕事に情熱を傾けていますが、奥さんにしてみれば、好きな男と、貧しくても幸福な生活ができればいいわけです。そんなある日、彼女は身ごもった。好きな男の子供を身ごもったわけですから、こんな幸福なことはなかったでしょうネ。おそらく駅前かどこかの産婦人科へ行って、妊娠を告げられたとき、彼女は嬉しかったと思います。それで、このセリフになるんです「私いいもの見つけちゃった」とネ。つまりこのセリフには妊娠を告げる喜びの言葉「私、あなたの子供ができちゃった」がダブっているんです。ところが、男は何といいました。「何を?」ですよ。奥さんが甘えた感じで「ねえ買ってもいいでしょう」と言った時にも「だから何を?」ですヨ。
いいかい、この男はこういう言い方しかできないけれども、違った言い方だってできるんですヨ。それではハルーナさん、わたしにむかって奥さんのセリフをもう一度行ってみて下さい。
「私いいもの見つけちゃった」
「そりゃよかったね」
「ねえ買ってもいいでしょう」
「いいよ」
・・こういう言い方もできるわけです。いいですか、先ほど言ったように、奥さんは一度堕胎したことがあるという解釈を踏まえてこの場面を見るとですネ、この男は奥さんに対してかなり残酷なことを言っていることになります。奥さんにしてみれば『私はあなたの子供が欲しかった。けれどあなたは子供を生むことを願わなかった。私たちには子供を育てる経済的余裕もない。それで私は仕方なく自分で決断して子供をおろした。だから子供の代わりに、せめて文鳥のヒナを買いたいと言っているのに、あなたは文鳥なんか飼ってどうするんだい、などと無神経なことばっかり言っている。ああホントに嫌になってしまう』ということだヨ。
いいかい、この男の特徴というのはサ。子供が出来た時にも、文鳥のヒナを買うときでも、決してはっきりと自分の意見を言っていないということなんだ。子供をおろせ、とも言っていないし、もちろん産めと言っていない。だから、奥さんは自分一人で決断したんだヨ。ほら、次のページをごらんなさい。奥さんが仕事に出掛ける時間になってふたりで駅まで行くけど、その間、男は文鳥のヒナを買っていいとも、いけないとも言ってないでしょう。なんかあいまいなままに、奥さんの意思が通ったという感じでヒナが買われるわけです。
それでいいですか、今日話したいことはこの、奥さんが男に見送られて駅の階段を昇っていく場面です。つげさんは奥さんの足元を描いています。そしてタタタタと手書き文字を書き入れています。男は黙って奥さんの後ろ姿を見送っています。ふつうに読んでいるだけでは別になんていうことのない場面ですよネ。おそらく男は、いつものように奥さんを見送っていたのでしょうし、話の流れから見れば、駅前の鳥屋で時間をくってしまった分、奥さんは先を急いでいた、だから間に合うように階段を急いで駆け昇っていった、とまあこのように読み取るわけですネ。しかしつげ義春という漫画家はそんな単純な作家ではないんです。
いいですか、奥さんのこの階段のタタタタという昇り方の中にですネ、彼女の男に対す
るすべての思いがこめられているんですヨ。私はあなたの子供を生みたかった、けれど貴
方の意を酌んで堕胎した、だからせめて文鳥のヒナを飼ってもいいでしょう、と甘えて頼
んでいるのに、「鳥なんか飼ってどうするんだい」ですからネ。奥さんにしてみればこん
な無神経な思いやりのない男とこれ以上一緒に生活するなんてできないと思って、もう二
度とおまえの顔など見たくない、そう思っているんです。しかし、しかしですよ、奥さん
は同時に自分が再び男のもとへと帰ってくる、帰ってこざるを得ない自分自身を痛いほど
知っているんです。そういった女の階段の昇り方をつげさんは見事に描いているというわ
けです。
尤も、つげさんに聞いたところではそこまでは意識していなかったそうですが……。テ
キストの解体と再構築の批評は、いいですか、作者が意識していない領域まで踏み込んで
いくんです。作者が無意識で描いた領域まで突き進んでいかないと批評はダイナミックに
なりませんからネ。作者の意図は……なんて次元で批評を展開してもまったく面白くあり
ません。感性の鈍い、想像力に欠けた、単なる実証的な研究ほど退屈でバカバカしいもの
はないですネ。
『チーコ』についての講義はこれでおしまいです。興味を持ったひとは、わたしの書い
た『チーコ』論を読みなさい。分かりましたネ、タクサガワノヴィチ。
さて『退屈な話』ですが、この主人公はニコライ・ステパーノヴィチという六十二歳に
なる大学教授です。三等官という設定ですから、まあ大臣級のお偉いさんです。官等は十
八世紀にピョートル大帝が官位を十四等に分けて設置したんですネ。ゴーゴリやドストエ
フスキーが好んで設定した万年九等官というのは言わばたたき上げの最終地点です。日本
で言えば、まあ万年課長というわけで、もうこれ以上の出世はない。尤も、現代では課長
になるのも難しい、実に厳しい時代を迎えているわけですがネ。
『退屈な話』はサブタイトルに「ある老人の手記より」とあります。この老人というの
が大学教授のニコライ・ステパーノヴィチです。つまりこの小説はニコライ・ステパーノ
ヴィチの〈手記〉という形をとっています。
さて授業では、今までずっとドストエフスキーの話をしてきたわけですから、ニコライ
・ステパーノヴィチと言えば何かピンときませんか。ドストエフスキーの『悪霊』を読ん
だことのある人は何人ぐらいいるんでしょう。えっ、三人しかいないの。まあ、いいか。
『悪霊』の中にステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーという男が出て
きます。ステパンはヨーロッパに留学して最新の学問を身につけてロシアに帰還してきん
ですが、大学にちょっと勤めただけで追放されてしまった。この男を息子ニコライの家庭
教師として雇い入れたのがヴァルヴァーラという、広大な領地を有する女地主です。ニコ
ライは後に、つまりこの小説が始まる頃にはかなり虚無的な存在として登場してきますが
、ステパン先生の教え子であった頃はむしろひ弱な腺病質な子供だったんですネ。それで
ニコライが十歳の頃、ステパンは彼と肉体的な関係を結んでしまったんです。いわゆるホ
モセクシャルな関係を結ばれたニコライはそれ以来〈人類永遠のかの憂愁〉をたたえた子
供になってしまいます。
ドストエフスキーは十九世紀の小説家ですから、まあこういったことは直接的に書きま
せん。分かるものにしか分からないやり方で、通の読者にそっと囁くように知らせるんで
すネ。
さて、ステパンは女好きの美少年好みでもあったらしいのですが、ヴァルヴァーラの庇
護のもとに好き勝手なことをしまくっています。シャンパンをあおりながら、ロシアとは
、ロシアの神とは、などと、まるでソクラテス気取りでしゃべりまくっていたんですネ。
しかしこのステパンに確固たる理念や哲学があったわけではないんです。言わば彼の内部
は空っぽです。何にもない。虚無というほど立派なもんじゃない。なんかだらしなく空っ
ぽなんですネ。そのくせ、饒舌です。いつの時代でもそうですが、こういった空っぽな雄
弁家に影響される若者はあんがい多いんです。このステパン先生の教え子であったニコラ
イ・スタヴローギンはその犠牲者であったかもしれませんネ。やがて彼もまた虚無の権化
のような男になります。要するに彼は、善悪観念を磨滅させるほどに徹底的に考えた青年
です。彼は自分自身を材料にしていろいろな実験を試みた男ですが、結局確かなものを手
に入れることができなかった。
ここで『悪霊』について詳しく語ることはしませんヨ。興味のあるひとはわたしの『悪
霊』論三部作を読みなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。要するにわたしがこの短
い授業時間の中で強調したいのは、『退屈な話』の手記の主体であるニコライ・ステパー
ノヴィチが『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーとその教
え子であったニコライ・スタヴローギンの名前を受け継いでいるということです。名前の
ニコライはニコライ・スタヴローギンの名前をそのまま、父称のステパーノヴィチはつま
りステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを意味するのではないかとい
うことです。
今までチェーホフの文学はドストエフスキーの文学とは対極にあると考えられていまし
たが、チェーホフの作品を詳細に分析してみると、彼がドストエフスキーの文学を熟読し
、自分なりに消化していたことは明白です。中途半端な小説家は影響を露骨にだしますが
、チェーホフの場合はその影響の跡がなかなか発見できないほどに消化しているというこ
とですネ。それにドストエフスキーを好きな評論家がチェーホフについてはあまり発言し
てこなかったということもあります。
さて、わたしが今日、問題にしたいのは『退屈な話』の最後のほうに出てくるカーチャ
とニコライ・ステパーノヴィチの関係についてです。カーチャというのはニコライ・ステ
パーノヴィチの養女です。同僚の眼科医が死んで一人娘のカーチャ、当時七、八歳であっ
たんですが、彼女をニコライ・ステパーノヴィチが引き取ることになったわけです。二人
の歳の差は三十七歳です。養父と養女、いわば先生と教え子のような関係でもあったわけ
ですから、二人の間にまさか男と女の関係があったなんてふつうの読者なら絶対に詮索な
どしないところです。わたしもはじめはそう読んだ読者の一人です。ところが、十九世紀
のロシア文学というのは、ツァー(皇帝)専制下、厳しい検閲制度のもとにあって、露骨
な性描写など許されていなかった。ですからドストエフスキーもトルストイも男と女の具
体的な性関係を描写することはなかった。しかしです。彼ら世界の文豪は描かずして描く
という手法を開発します。例えば『罪と罰』の話を思い出して下さい。この小説は日本語
訳にすると千枚以上の長編ですが、設定された時間は非常に短い。十三日間の物語で、し
かも主人公のラスコーリニコフは四日間ぐらい意識不明であったりしますから、実際的に
は一週間ぐらいに起きた出来事を追っています。まあ、少し厳密な言い方をすれば、ラス
コーリニコフの過去が描かれていたりしますから、単純に一週間の物語とは言えないとこ
ろもありますがネ。しかし今日はそんな厳密に『罪と罰』を批評しようなどとは思ってい
ません。詳しいことを知りたいひとはわたしの『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』を
熟読しなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。
話を元に戻しましょう。とにかく十九世紀の文豪たちにはセックス描写は許されていな
かったのです。しかし、今度のチェーホフ論『チェーホフを読め・・空虚な実存の孤独と
倦怠・・』にも書きましたが、ドストエフスキーの『罪と罰』なんか、いたるところに描
かれざる〈セックス描写〉が隠されているんです。一度読んだぐらいで「『罪と罰』って
ステキ」なんて言っている女子学生が毎年五人はいますが、しかし彼女たちのうちで誰一
人ラズミーヒンの〈すけべ〉に気づいたひとはいませんネ。この青年、ラスコーリニコフ
と違ってたいへん逞しい男で、翻訳の仕事などをてきぱきこなして金を稼ぎ、ちゃんと経
済的にも自立して学生生活を送っています。友情にも厚く、ラスコーリニコフが訪ねてく
れば、すぐにバイトを紹介するようなひとのいい好青年ですネ。ですから「わたしラズミ
ーヒンが好き」なんて女性はけっこういます。が、このたくましい好青年、女にかけても
なかなかの発展家で、気にいった女はすぐにものにする。ラスコーリニコフの下宿先を突
き止めた時に、当のラスコーリニコフは意識不明で屋根裏部屋のソファに寝込んでいるが
、そのわずか二、三日の間に下宿の女将プラスコーヴィヤといい仲(男と女の関係)にな
っています。
が、二十歳前後の若い学生にそこまで読み取る力はない。それでそのことを指摘してや
ると、とつぜんラズミーヒン人気が下落したりします。まあ、あれですネ、ラスコーリニ
コフの妹ドゥーニャ、彼女はルージンと婚約してペテルブルクに母親のプリヘーリヤとや
ってくるわけですが、この美しいドゥーニャがラズミーヒンと結婚することになる・・わ
たしなどはホントいやになってしまいますヨ。なんでまたラズミーヒンなんですかネ。や
はりドゥーニャにはスヴィドリガイロフあたりを手玉にとってもらいたかったわけですが
、わたしから言わせるとあまり面白くない男と結婚してしまった。
話を元に戻しましょう。『罪と罰』でなんと言っても描かれざる最大の〈濡れ場〉はソ
ーニャと最初の男の関係ですよネ。ソーニャの最初の男は誰か? 二十年も前のゼミでず
いぶん盛り上がったテーマですが、要するにソーニャの処女を買ったのは、あの酔漢マル
メラードフがペテルブルクじゅうで知らない者がないほど〈善良な人〉と吹聴したあのイ
ヴァン閣下ですネ。ソーニャの最初の相手の顔がはっきりすれば、彼ら二人の性的関係な
ど一行も描かれていなくとも、読者が想像力を働かせさえすれば鮮明に浮上してきます。
その他、スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係とか、プラスコーヴィヤとチェヴァーロ
フ、ラスコーリニコフとナタリアおよびソーニャの関係など、描かれてはいないが、想像
すれば想像できる〈男と女〉の関係の場面はたくさんあります。まあ、きりがないのでこ
れぐらいにしておきましょう。詳しいことを知りたいひとは私が書いた『宮沢賢治とドス
トエフスキー』を読みなさい、いいですねシンタロウ君。
さて『退屈な話』ですが、ニコライ・ステパーノヴィチがハリコフにやってきます。な
ぜやってきたのか。それは彼の一人娘リーザが好きになって結婚したいと思っているグネ
ッケルという男がハリコフに大きな屋敷と領地を持っているなどと言いふらしていたもの
だから、妻のワーリャが夫にハリコフに行ってくれと頼んでいたんです。ニコライ・ステ
パーノヴィチはどうもグネッケルが気にいらない。とにかく彼のすることなすことすべて
が気に入らずいらいらのし通しだったんです。しかし余命いくばくもない老教授は老妻の
言うことをきいてはるばるハリコフまでやってきたわけです。それでホテルに泊まって、
ハリコフ生まれの老ボーイにグネッケルのことを聞きます。するとそのボーイはグネッケ
ルなどという名前の屋敷は当地にはないし、そんな領地もないと断言します。まあ、ここ
だけ読めば、グネッケルは何か詐欺師みたいな男の印象が強いわけですが、チェーホフは
はっきりと書いていません。
そうこうするうちに、娘のリーザが秘密に結婚式をあげてしまったという電報が老妻か
ら届きます。ニコライ・ステパーノヴィチはその電報を読んで愕然とします。が、その愕
然は娘の挙式ではないんです。彼はそのことに〈無関心〉の反応しか示せなかったことに
愕然とするんです。
それでまたそうこうするうちにワーリャがニコライ・ステパーノヴィチのホテルに訪ね
て来ます。やはり老教授ニコライの〈手記〉とは言ってもチェーホフが作っている〈小説
〉てすからネ、次々に新たな出来事が向こうからやって来るというわけです。
さて、いよいよわたしが言いたい山場です。ワーリャはニコライ・ステパーノヴィチが
病気で、あと何ヵ月しか生きられないということを知っています。まあ、知っているかど
うかははっきりとは書かれてはいませんが、それ位のことを察する感性がなければはじめ
からお話になりません。カーチャは執拗に「わたしはどうしたらいいんです?」と詰め寄
ります。この言葉は、人生の指針を老教授に求めているように聞こえないことはないです
よネ、というよりかそのように受け取られてきたわけです。しかし、いいですか、タクサ
ガワノヴィチ。若い女が、男に向かってこのようなセリフを何回も執拗に、ヒステリック
に、叫ぶように問うということは尋常ではないですよネ。
チェーホフはさりげなく書いています。カーチャが手提袋からハンカチを取り出そうと
したとき、何通かの手紙が床に落ちてしまう。手紙を拾い上げたニコライ・ステパーノヴ
ィチは、筆跡でそれが同僚の文献学者ミハイルがワーリャ宛に出した熱愛の手紙であるこ
とを察します。この文献学者は五十年輩の教授で、毎日のようにカーチャの家を訪れては
大学内のことで毒舌を発揮していた男で、カーチャとはその点でも気が合っていたように
書かれていました。しかし、今、なぜカーチャがわざわざハリコフにまでニコライ・ステ
パーノヴィチを訪ねて「わたしはどうすればいいんです?」などと問いただしているのか
と言えば、それはつまりカーチャがニコライ・ステパーノヴィチを誰よりも愛していたか
らにほかならないでしょう。『わたしはミハイルに熱愛されている、ほらこんなにたくさ
んの熱烈な手紙を貰っている、しかし、しかしわたしが誰よりも愛しているのはあなた、
ニコライ・ステパーノヴィチなのです、いったいわたしはどうしたらいいんです?』まあ
、カーチャの内心を代弁すれぱこういうことになります。
ところがニコライ・ステパーノヴィチはそのカーチャの心を知ってか知らずか、完璧に
はぐらかして「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ」などとバカなセリフを吐いて
います。が、カーチャはそんな言葉を耳にするためにわざわざハリコフまでやってきたわ
けではないですからネ、泣きながら執拗に食い下がります。するとニコライ・ステパーノ
ヴィチは「朝御飯でも食べよう」なんて、さらに間抜けなことを口にします。彼は「わし
はもうすぐ死ぬよ」とまで告白しています。カーチャはいっさいそんなことに耳をかしま
せん。当たり前ですよネ、カーチャはニコライ・ステパーノヴィチと朝御飯を食べるため
にハリコフまでやってきたわけではないんですから。カーチャは愛する、誰よりも愛する
ニコライ・ステパーノヴィチの、自分の思いと同じ思いの言葉を聞きたかった、ただその
ひと言を聞くためにすべてを捨ててハリコフにやってきたんです。
しかし、ついにニコライ・ステパーノヴィチからその言葉を引き出すことはできなかっ
た。沈黙が訪れます。この沈黙のなかでカーチャは決定的に変わります。泣きじゃくりな
がら愛の言葉をおねだりする女から、断念した女、ニコライ・ステパーノヴィチに愛想を
つかした女に変貌します。ニコライ・ステパーノヴィチ、いやチェーホフはその変貌した
女カーチャを次のように書いています。いいですか、タクサガワノヴィチ、この場面は恐
ろしいですヨ。ちょっと読んでみますから、よく聞いてくださいヨ。
沈黙が訪れる。カーチャは髪を直して帽子をかぶり、それから手紙を丸めて手提袋へ突
込む。・・これらの動作は、黙ったままゆっくり行われる。顔も胸も手袋も涙でぬれてい
るが、表情はもう乾いていて、きびしい。
どうですか、わたしが言わんとしていることが分かりますか。このときカーチャはゆっ
くりと髪を直し、ゆっくりと帽子をかぶり、ゆっくりと手紙を丸めて手提袋に入れていま
すよネ。つまりこのゆっくりした動作が別離を決意した女の行為なんですネ。
『チーコ』の奥さんが駅の階段を駆け昇っていく場面を思い出してください。先に話し
たように、『チーコ』の奥さんの場合は男に愛想をつかし別れたいと思っても、結局は帰
ってこざるを得ない女、そういった女の階段の昇り方だと言いましたが、カーチャの場合
はまったく違いますよネ。カーチャはもう泣きもしません、わめきもしません、ましてや
「わたしはどうすればいいのです」とも訊いたりしません。〈別離〉は決定的です。決定
的な〈別離〉を覚悟した女が、男とどのように別れていくか、チェーホフはそれを次のよ
うに書きました。
2004年01月18日
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