つげ義春さんとお会いして(3)

マンガ論, ニュース

人見知りがはげしいということを聞いていたが、つげさんはよくいろいろなことを話してくれた。これなら大学の「マンガ論」で特別講座に来てもらえるのではないかと思い
「調布から所沢までは遠いですか。夏休みあけに、特別講座に来て学生さんに何か話していただけませんか。講演でなくても、このような対談形式でも結構なんですが」
「……妻が死んで四年半になりますが、それ以来新宿には出掛けていません。今日はわざわざこんな遠くまで来てもらって申し訳ありません」
「江古田はどうですか。江古田だったら近いんじゃないですか」
「昔、漫画を描いている後輩が江古田にいて、江古田には行ったことがありますね」「何年ぐらい前なんですか」「四十年ぐらい前ですかね」
つげさんは、今の生活を自然に楽しんでいるようにも見えたが、本当のところは分からない。つげさんと居ると、ゆったりとした時間のなかにつかっている感じである。
「『チーコ』の最終コマは、これは翌日ということですか」
「そうですね、明るいですからね」
「ぼくは初め、この最終コマは奥さんが帰ってきたその日の夜だと思っていたんですよ。このスコップを持って庭を探す場面は、帰って直ぐのことだと思ったんですね。ですから、この最終コマは本来真っ黒にベタ塗りされるべきコマで、白っぽく描かれているのはマンガの一つの描法と理解していたんですが……、まあ、このように読むとこのように解釈できるということですが。この佐渡人形が黒く描かれているコマですが、これは下が狭くなっているので、読者の視点は漫画家の青年とチーコが戯れている所に集中して、下に描かれているこの不気味な佐渡人形を見落としてしまうんですね。そこで別に下を広くしたコマ絵を作ってみましたが、こうすると読者の目線は否応もなくこのベタ塗りされた佐渡人形を見ることになるんですね。まあ、こんなことを授業で言いますと、学生さんたちはオオッなんてびっくりしています。ところで『チーコ』とか『別離』は、あれ本当にあったことなんですか」
「ほとんどあったことですね」
「『チーコ』で奥さんが、電車で帰って来なかったことがありますね。あの夜、実は奥さんは他の男と浮気したと思うか、と学生に聞くと半分ぐらいはそうだと言いますね。実際はどうだったんですか」
「そんなことはありませんね」
「そうですか。それじゃ、奥さんが浮気したというのは、あの最終コマの後ということですか」「『別離』で女が浮気しますが、シェパードの方じゃないですね」
「あの本屋によく来ていたという学生ですね、冴えない顔した……」
「そうですね」
「つげさんは他の女性と関係したということはなかったんですか」
「なかったですね、描くことに精一杯でしたからね」
この言葉を聞いた時になんか胸にジーンと来るものがあった。
「『チーコ』で奥さんが駅の階段を昇っていく場面がありますが、このタタタタという昇り方は、絶対にまた戻ってくる昇り方ですね。どんなに男のことを怨んで、二度と戻ってなんかくるもんか、と思っても、結局戻ってきてしまう女の階段の昇り方ですよね。つげさんはどこまで意識して描かれたんですか」
「いや、そこまでは意識していなかったですね」
「作者が、自分の作品をすべて予め分かっていて描くというのは、かえって駄目ですね」
「そうですね」
「作者が無意識のうちに描いて、結果として、言われてみればそうだな、というのがいいんですよね。作者が自分の作品についてすべて分かっている、というのは、パズルと同じで予め答えが用意されているわけですからつまらないですね。批評は作者にも分からないことを発見させるということですから」
 『つげ義春を読め』の  頁、「『盲刃』を読む」の所を開き
「このタイトルはなんとお読みするんですか」
「もうじん」
「この楠木という男、なかなか曲者ですね」
「そうですね」
「盲の剣士が武蔵に殺された後、この楠木、奥さんを妾かなんかにしそうですね」・・  頁、『運命』の浪人とその妻の顔を見ながら「死を覚悟したこの二人の顔は実に美しいですね。特にこの男、ドングリ眼にダンゴ鼻でこんなに美しい顔をしていますからね」
話ははずみ、時間もそうとう経った。
「お時間は大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
「それではもう一杯コーヒーを頼みましょうか」
「はい」コーヒーを頼み、再び話を続ける。
「写真を撮らせてもらえますか」
「ここは写真は駄目なんです」
「それでは帰りに外でお願いします」
午後二時半から五時半までの三時間、いろいろな話をしたが、やはりつげ氏の漫画に関して、そのディティールにまで踏み込んだ話をしたいという気持ちが起こった。
「特装本が出た時に、また担当者と来ますので宜しくお願いします。今日はありがとうございました」
外に出ると、つげさんは愛用の自転車の籠の中に『つげ義春を読め』と『「マンガ論」へようこそ』を入れた。わたしは記念に写真を三枚ほど撮らせていただいた。自転車に乗って帰っていくつげさんの姿は、まるで『    』の中の主人公のようであった。わたしは、束の間、つげ漫画の世界に居たのではないかと思ったほどだ。久しぶりにゆったりとした時間を過ごさせてもらい、何か得した気分で、わたしは調布駅から新宿へと向かった。

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